高齢化社会に少子化、一方では人手不足。そのために、「従来の定年」を見直そう、というような動きが最近の日本では出てきていますが、音楽家にとっても、「定年後」は重要です。
決して儲かる商売ではない作曲家という職業人にとって、晩年は悲惨なことが多い・・この具体例はモーツァルトやショパン、そしてドビュッシーでさえ、晩年、経済的不安におびえながら身を削るようにして働き、命を縮めた、というようにたくさんあります。会社などへのお勤めと違って、「定年」が無い音楽家ではありますが、演奏すれば比較的すぐにギャラをもらえる演奏家に比べて、作品が売れなければ収入にならない作曲家はなお一層苦しい立場になります。そのため前述した3人も、晩年は作曲家としてだけではなく、演奏家としても必死に活動しています。
しかし、今日の主人公はとても恵まれた「定年後」を過ごしました。
古典派の巨匠、「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」と呼ばれている、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンです。彼の最後の交響曲、第104番 ニ長調 Hob.I‐104「ロンドン」を取り上げましょう。
体の良い「引退」に追い込まれて...
まだ、フリーの作曲家という立場がほとんどあり得なかった古典派の時代、音楽家は貴族などの有閑階級か、教会などの雇い主を必要としました。若きハイドンは28歳の時、音楽好きの貴族、ハンガリーのエステルハージー家に雇われます。オーストリアのハプスブルク家に忠誠をつくした当主ニコラウス・エステルハージーは、ハイドンを宮廷楽長にし、以後30年にわたって、宮廷楽団の采配を任せます。作曲家としてだけでなく、楽団の代表者、指揮者としてのハイドンは結構忙しかったようですが、それでも幸せな宮仕えだったと言ってよいでしょう。
ところが1790年、ハイドン58歳の時、当主ニコラウスは死去、後を継いだアントン2世は音楽に全く興味がなく、宮廷楽団も宮廷オペラも解散となってしまいます。楽長ハイドンはあまりにも高名だったため、解雇はされませんでしたが、年金が支給される名目だけの宮廷楽長・・・つまり体の良い「引退」に追い込まれてしまいます。ハンガリーの地にも居なくてよい、となったので、ハイドンは「音楽の都」ウィーンに戻ります。
経済的には保証されてはいますが、才能にあふれ、次から次へと楽想が湧いてくるハイドンにとって、これは面白くない状況です。そこで、彼は、ヴァイオリニストで興行主でもあったヨハン・ペーター・ザロモンの誘いに乗ることにします。その誘いとは、当時から経済的に先進地域だった英国の首都ロンドンへ向かい、自作を演奏することでした。
形としては、ロンドンのザロモン主催の演奏会に新作を引っ提げてハイドンが登場、というものだったのですが、ハイドンは1791年から1792年にかけてと1794年から1795年にかけてと計2回、2年ずつもロンドンに長期滞在し、交響曲を12曲も作り上げて発表することになります。
ちなみに、ウィーンを離れてロンドンに向かうハイドンの送別会で会ったのが、ハイドンとモーツァルトの最後の別れとなり、ハイドンはロンドンでモーツァルトの訃報を知り、悲しみました。ザロモンは、モーツァルトの最後の交響曲第41番に「ジュピター」の愛称を与えた人でもあります。モーツァルトがドイツ語圏の作曲家なのに、英語のタイトルなのは、ザロモンがロンドンで活躍していたからなのです。