「戦争宣言」「銃をとれ」
すでにバンド活動をしていた彼が学生集会で知り合った友人から「読んでみな」と勧められた本の中にあったのが、当時誕生したばかりの「共産同赤軍派」の「世界革命戦争宣言」だった。「君たちにベトナムの民を殺す権利があるなら我々にも君たちを殺す権利がある」という「宣言」にギターとパーカッションでリズムを付けた演奏が喝采を浴びた。ドイツの劇作家、ブレヒトの詩に曲を付けた「赤軍兵士の詩」や「銃をとれ」とともに「頭脳警察革命三部作」と呼ばれるようになった。ロンドンで登場した同じ編成のバンド、T・REXが紹介される前だ。
ベトナム反戦デモや授業料値上げ反対。大学や高校がデモやストで揺れていた。69年には大学や高校の「紛争校」が、それぞれ100を超えている。
頭脳警察は、そんな時代が押し上げたヒーローでもあった。そして、レコード会社にすれば、それだけ人気があるのなら「レコード出そう」と持ち掛けるのも当然の成り行きということになる。
「でも、あの曲はやめた方が良いですよ、もっとポップな曲もあるしレコーディングするのなら他のにした方がって言ったの。俺たちはクールでしたよ。いや、大丈夫だ大舟に乗った気でいてくれっていうんで京都府立体育館と東京体育館でライブレコーディングして、さあ発売という時に浅間山荘が起きた。こんな時に赤軍派の『戦争宣言』はどう見てもダメでしょう。あの曲を外してスタジオ録音で『セカンド』を作った直後にイスラエルのロッド空港で銃の乱射が起きた。『銃をとれ』も駄目でしょうと、それも出なかった」
歴史のおさらいである。
それだけ全国の大学・高校に波及した学園闘争の波は警察と学校側の力で「正常化」され、キャンパスには無力感や挫折感が広がって行く。
行き場を失った若者たちの一部は自暴自棄的とも言えるより過激な行動に走る。長野県の浅間山荘に立て籠って警官隊と銃撃戦を展開した連合赤軍事件やイスラエルのロッド空港での学生の乱射事件もそんな流れの中で起きた。
聞き手が求めるものを歌う。もし、それが時代の要求なのだとしたら、彼らはプロとしてそれに従ったということだろう。そうした「三部作」を外して3枚目のアルバム「3」が出たのは72年の10月だった。
「やっと陽の目を見ましたね。レコード会社からは麻丘めぐみと一緒にヒット賞をもらいました(笑)。でも、最後の3年くらいはそういうパブリックイメージとの戦いで辛かったです」