再演されるたびに人気と評価が高まる
しかし、そんな状況の中でも『海』の作曲は、スケッチのピアノ連弾版、そしてそれをオーケストレーションした管弦楽の完成版、と着々と進められました。1908年にはエンマ・バルダックとも正式に結婚し、以後亡くなるまで歌手であり教養があった彼女と連れ添うことになります。
1905年に完成した『海』は、それまで誰も見たことも聴いたこともないような斬新な曲だったため、指揮者も、演奏するオーケストラも理解が浅く、初演時の演奏が惨憺たるものだったために、それほどの評判となりませんでした。しかし、再演されるたびに人気と評価は高まり、ついには、フランスを代表する作曲家ドビュッシーの真の代表曲と称賛されるようになります。ドビュッシーがいつも心掛けていたことですが、「彼の内なる美学」に忠実に描き出した、彼の独自の音の世界が、『海』という作品によって、広く世の中に知れ渡った、といってもよいでしょう。彼は、「音楽とは、リズムによって形を与えられた時間と色彩の芸術」と言い残していますが、まさにそれを具現化したのがこの『海』なのです。決して、文学や風景を描写する「交響詩」ではない、とこだわったことにも納得がいきます。
現代でも、この作品は、演奏会に頻繁に取り上げられ、ドビュッシーの人気作品となっています。
しかし、傑作誕生の陰には、女性とのさまざまな関係がありました。実は、エンマ・バルダックは相当したたかな女性で、最初はお金だ、と銀行家バルダック氏と結婚し、お金を手に入れたら次は名誉だ、とばかりに、ソプラノ歌手という立場からか名のある作曲家に次々にアプローチします。ドビュッシーの先輩である、やはりフランス近代を代表する作曲家ガブリエル・フォーレとは、ドビュッシーと関係ができる以前、一時不倫関係にありましたし、ドビュッシーに代わってフランス楽壇の寵児となるモーリス・ラヴェルにも接近しました。ラヴェルはかなりなマザコンだったため、彼女には全く興味を示しませんでしたが・・・。
しかし、銀行家と離婚し、ドビュッシーと結婚したエンマは、妻としてそして母として、ドビュッシーと一緒に暮らすことになります。『海』の完成と同じ1905年、ドビュッシーにとっては、唯一の子供となる娘、クロード=エマ・ドビュッシー、通称シュシュ(キャベツちゃん)が生まれるのです。
『海』はフランス語では女性名詞、したがって女性形の定冠詞がついて「ラ・メール(la mer)」と表記されますが、これと全く同じ発音の名詞があります。表記は「ラ・メール(la mère)」となるこの言葉の意味は、「母」。もちろん、偶然でしょうが、なんとなく深読みをしたくなってしまいます・・・・
本田聖嗣
ドビュッシーが交響的素描「海」を管弦楽で作り上げるにあたって、同時に作ったピアノ連弾版を、私がプロデュースする演奏会「サロン・ド・ドビュッシー」(11月18日、日曜日)に、同じパリ国立高等音楽院に留学した仲間でもあるピアニストの藤原亜美さんと演奏します。詳しくはhttps://tocon-lab.com/event/181118をご覧ください。