タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
時代が変わったと思わされることは日常的に無数にある。インターネットや携帯電話などの通信手段や交通手段。街の様子や食生活。すでに20年前くらいのことですら思い出せない。
そうした目に見えること以外にも「物事の評価」がある。美術などの例を待つまでもなく当時はほとんど顧みられなかった作品が再評価されて光が当てられてゆく。
J-POPでそうした傾向が顕著になったのはこの10数年だろう。70年代のアルバムが「埋もれた名盤」として取り上げられるようになった。
松任谷由実のツアーの音楽監督として知られるキーボーディスト、武部聡志がプロデュースする「100年後に残したい名盤のDNAを伝える」コンサート「SONGS&FRIENDS」の二回目で取り上げる小坂忠のアルバム「HORO」(ほうろう)もそんな一枚だ。武部聡志は、こんなコメントを出している。
「このアルバムが発売された1975年、当時18歳だった僕は、それまでになかった斬新なサウンド、そして忠さんのボーカルに衝撃を受け、プロミュージシャンの道を目指した事を今でも鮮明に覚えています。このアルバムが、後に世に出るジャパニーズソウル、R&Bの礎になった事は疑う余地がありません」
「はっぴいえんど」の母体となった
小坂忠は1948年東京生まれ。音楽シーンに名前が登場してくるのは1969年にデビューし、アルバムを一枚残して解散してしまうロックバンド、エイプリルフールのヴォーカリストとしてだ。ベースが細野晴臣、ドラムは松本隆。日本語のロックの元祖となったはっぴいえんどはエイプリルフールが母体となって誕生したバンドである。当初、ヴォーカリストとして予定されていたのが小坂忠だ。ただ、彼は70年に上演されたロックミュージカル「ヘアー」のオーディションに合格、舞台に立つことになる。代わって新たに加わったのが大滝詠一だった。
やはり「SONGS&FREINDSコンサート」の総合演出を担当する松任谷正隆のコメントはこうだ。
「20代前半、僕には暗黒時代がありました。何をやっても認められず、何をやってもうまくいかなかった。そんな記憶を塗り替えられる日がついに来るかもしれません。というより、この日が決まってからというもの、徐々にではありますが重い記憶が消えつつあります。忠さんと出会えてよかった、と心から言えそうです」
70年代前半、ロックはアンダーグラウンドな音楽だった。はっぴいえんどに加わらなかった小坂忠がミュージカルから音楽に戻ったのが71年。ソロ一枚目のアルバム「ありがとう」には、細野晴臣や松本隆、鈴木茂など、はっぴいえんどのメンバーが参加している。松任谷正隆は、彼の72年のライブアルバム「もっともっと」のために結成されたバンド、フォージョーハーフのキーボーディストだった。メンバーは、二人の他に駒沢裕城(G)、後藤次利(B)、林立夫(D)の計5人。フォージョーハーフというのは「四畳半」の英語読みである。「神田川」のように身の回りのことを歌った当時のフォークソングが「四畳半フォーク」と呼ばれていたことを知る人はもう少ないだろう。
ヴォーカリストとしての個性を確立
はっぴいえんどはこの10数年の「日本のロック再評価」のきっかけとなった存在。CDやアナログレコード、カセットまでも何度となく再発売されている。後にYMOを結成した細野晴臣、ポップスの巨人として屹立している大瀧詠一、歌謡曲を変えた作詞家、松本隆、ギターのカリスマ、鈴木茂という顔ぶれを見れば当然の成り行きでもあるのだろう。ただ、当時彼らが所属していた事務所、風都市が頓挫してしまったことはあまり語られていない。そこにははっぴいえんどだけでなく、はちみつぱいやシュガーベイブ、あがた森魚ら、そうそうたる顔ぶれがいた。その理由は経済的な問題だった。つまり、経営的に成り立たなかった。
当初はプロデューサーになろうとしていた松本隆が作詞家に転身したのも「食えなかった」からだ。ロックは生活出来る音楽ではなかった。松任谷正隆が言う「暗黒時代」である。
70年代の日本のポップミュージックを変えたという意味で語られなければいけないのははっぴいえんどだけではない。
73年にはっぴいえんどを解散した細野晴臣は、自分のソロアルバムのレコーディングに合わせてフォージョーハーフの松任谷正隆、林立夫らとともにセッション集団、キャラメル・ママを発足する。音楽の知識やセンス、演奏力を生かして様々な歌手のプロデュースやバックを請け負うという職人集団。それが彼らの生きる道だった。
彼らが手掛けたアルバムの中に荒井由実時代の3枚のアルバムがある。武部聡志の「SONGS&FRIENDS」の第一回で取り上げたのが荒井由実の73年のデビューアルバム「ひこうき雲」だった。
彼らが初めて歌謡界のレコードを手掛けたのが74年のアグネスチャンのデビューアルバムだ。雪村いづみのアルバム「スーパー・ジェネレイション」も再評価されている一枚である。
キャラメル・ママはそうした業界の評判の高まりとともに周辺のミュージシャンを交えて発展的に解消、74年に誕生したのがティン・パン・アレーだった。75年に発売された小坂忠のアルバム「HORO」は、彼らが初めて全面的に参加したアルバムである。コーラスには山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子、旧姓の矢野顕子らも参加。それまでの日本にはないソウル・ミュージックやリズム&ブルースの色濃いロックアルバムは小坂忠のヴォーカリストとしての個性を確立し当時から名盤とされていた。アルバムを携えた全国ツアー「ファースト&ラスト」は、異例の大規模なものだった。
ただ、その割に語られることが少なかったのは、そのツアーの後に小坂忠が心身のバランスを崩してしまい、更に娘の事故が重なり商業音楽から身を引いてしまったこともあるだろう。細野晴臣はYMOを結成、松任谷正隆は荒井由実と結婚、彼女のプロデュースが主になってゆく。「ファースト&ラストツアー」はまさに最初で最後の旅となった。
牧師として教会でも歌う
小坂忠は、教会でのゴスペルミュージックに新しい道を見出し渡米。帰国後は牧師として教会で歌うようになり、ポップミュージックに戻るのは2000年代に入ってからだ。
彼は1948年生まれ。今年70歳を迎えた。しかも去年は生死にかかわる大病も経験。そこからも復帰した。今年はビルボード東京でやはり「HORO」をテーマにしたコンサートも行っている。
11月26日に東京国際フォーラムで行われる「SONGS&FRIENDS」はタイトルにあるように、ティン・パン・アレーのメンバーや矢野顕子らアルバムの当事者だけでなく、当時の音楽のDNAを持った「FRIENDS」たちが参加する。すでに槇原敬之やChar、田島貴男、さかいゆう、などの名前もあがっている。
時代は変わる。当時は顧みられることの少なかった「幻の名盤」の再評価。当時を「暗黒時代」と言う松任谷正隆が「良い時代になった」と思える夜になることは間違いなさそうだ。
(タケ)