ヴォーカリストとしての個性を確立
はっぴいえんどはこの10数年の「日本のロック再評価」のきっかけとなった存在。CDやアナログレコード、カセットまでも何度となく再発売されている。後にYMOを結成した細野晴臣、ポップスの巨人として屹立している大瀧詠一、歌謡曲を変えた作詞家、松本隆、ギターのカリスマ、鈴木茂という顔ぶれを見れば当然の成り行きでもあるのだろう。ただ、当時彼らが所属していた事務所、風都市が頓挫してしまったことはあまり語られていない。そこにははっぴいえんどだけでなく、はちみつぱいやシュガーベイブ、あがた森魚ら、そうそうたる顔ぶれがいた。その理由は経済的な問題だった。つまり、経営的に成り立たなかった。
当初はプロデューサーになろうとしていた松本隆が作詞家に転身したのも「食えなかった」からだ。ロックは生活出来る音楽ではなかった。松任谷正隆が言う「暗黒時代」である。
70年代の日本のポップミュージックを変えたという意味で語られなければいけないのははっぴいえんどだけではない。
73年にはっぴいえんどを解散した細野晴臣は、自分のソロアルバムのレコーディングに合わせてフォージョーハーフの松任谷正隆、林立夫らとともにセッション集団、キャラメル・ママを発足する。音楽の知識やセンス、演奏力を生かして様々な歌手のプロデュースやバックを請け負うという職人集団。それが彼らの生きる道だった。
彼らが手掛けたアルバムの中に荒井由実時代の3枚のアルバムがある。武部聡志の「SONGS&FRIENDS」の第一回で取り上げたのが荒井由実の73年のデビューアルバム「ひこうき雲」だった。
彼らが初めて歌謡界のレコードを手掛けたのが74年のアグネスチャンのデビューアルバムだ。雪村いづみのアルバム「スーパー・ジェネレイション」も再評価されている一枚である。
キャラメル・ママはそうした業界の評判の高まりとともに周辺のミュージシャンを交えて発展的に解消、74年に誕生したのがティン・パン・アレーだった。75年に発売された小坂忠のアルバム「HORO」は、彼らが初めて全面的に参加したアルバムである。コーラスには山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子、旧姓の矢野顕子らも参加。それまでの日本にはないソウル・ミュージックやリズム&ブルースの色濃いロックアルバムは小坂忠のヴォーカリストとしての個性を確立し当時から名盤とされていた。アルバムを携えた全国ツアー「ファースト&ラスト」は、異例の大規模なものだった。
ただ、その割に語られることが少なかったのは、そのツアーの後に小坂忠が心身のバランスを崩してしまい、更に娘の事故が重なり商業音楽から身を引いてしまったこともあるだろう。細野晴臣はYMOを結成、松任谷正隆は荒井由実と結婚、彼女のプロデュースが主になってゆく。「ファースト&ラストツアー」はまさに最初で最後の旅となった。