タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
コンサート会場というのは年齢によって受け止め方や意味が変わってくるのではないだろうか。
中高生の頃は、学校や家庭とは違う自由な空間であり、時には「やってはいけないこと」という禁じられた扉を開ける場だったりする。
社会人になって仕事や家庭を持つようになってからは退屈な日常から解き放たれる非日常の空間になる。
更にそれが重なって行くと、その時々の日常からの脱出という即時的なことに留まらなくなる。つまり、そのアーティストのコンサートが、その人自身の人生に重なり合ってゆく。
2018年9月15日、矢沢永吉の東京ドームコンサート「EIKICHI YAZAWA 69TH ANNIVERSARY TOUR 2018 『STAY ROCK』」は、そんなお互いの関係を象徴するようなコンサートだった。
24歳でデビュー「必死ですよ。絶対上に行く」
開演前に流れていたエルビス・プレスリーの「SHAKE RATTLE&ROLL」が終わって照明が落ちた会場の反対側のアリ―ナから登場した彼は、移動式のステージの上で歌いながら「ありがとう」を繰り返す。メインステージについて「行くぜ~!」という声で生火が噴きあがり下手から上手に走りながら軽やかにステップする。スタンドをわしづかみにしたマイクがバチバチ、バスンと音を立てる。マイクスタンドを背負い投げのように床に叩きつけるアクションは彼の専売特許だ。8ビートが誘発する瞬間的な衝動。30年以上も共にしている外国人ミュージシャンを中心にしたバンドが太くて艶のあるリズムを揺すり上げる。「レイニー・ウェイ」「背中ごしのI LOVE YOU」、そして「Morning Rain」「SOMEBODY'S NIGHT」「ラスト・シーン」とロックンロールとバラードを交互に歌い終えてからこう言った。
「矢沢、昨日69になりました」
「24歳でキャロルでデビューしましたけど、必死ですよ。絶対上に行く、成功してやるって意気がって走ってきて69だよ」
矢沢永吉は1949年9月14日生まれ。被爆地広島の極貧環境で育った子供の頃や高校を卒業と同時に上京、横浜でバンドを始めた当時の赤裸々な生きざまは78年に発売されてベストセラーになった「成りあがり」に詳しい。金も地位もコネもないバンド少年の裸一貫の成功物語が安定というベルトコンベアーに乗れなかった若者たちにどのくらいの勇気と希望を与えて来たかは客席が証明している。
もし、矢沢永吉がビートルズに出会わず8ビートの洗礼を受けていなかったらどうなっていただろうという仮定と同じように、もし矢沢永吉に出会わなかったら客席の多くが今のような人生を送っていただろうか。
キャロルの登場は70年代の衝撃の一つだった。デビューは72年12月だ。その年の初めに日本中を震撼させた連合赤軍のリンチ事件の後遺症のような澱んだ時代の空気の中に革ジャンリーゼントという時代遅れのようなファッションの4人が登場した。汗を飛び散らせながら叫ぶカタカナまじりのロックンロールはロックアウトされた大学のキャンパスや旧態依然とした学歴社会をあざ笑うかのように颯爽として痛快だった。
ただ、矢沢永吉のキャリアの中でキャロルはほんの始まりであり一部に過ぎないと言っていいだろう。日本のロックの歴史に対しての功績は圧倒的にソロになってからだ。
75年4月、炎に包まれた日比谷野外音楽堂での解散コンサートを終えてすぐに彼はソロのデビューアルバム「I LOVE YOU, OK」のレコーディングのためにロサンゼルスに飛んでいる。プロデューサーは「ゴッドファーザー」のサウンドトラックを手掛けたトム・マック。現地ミュージシャンが参加していた。
なぜロスだったのか。これまでのインタビューでも「なぜ日本のレコードと洋楽のレコードがこんなに音が違うのか、ともかくそれを知りたかった」と話していた。
どうすれば既成勢力と戦えるか
矢沢永吉の功績はいくつもある。
ソロ活動を始めた当時、彼のコンサートが各地で会場拒否にあったことは有名だ。理由は客席で喧嘩が始まるとか興奮した客が椅子を壊すという噂が独り歩きしたからだ。ロックは偏見と色眼鏡の中にあった。会場の周辺を機動隊が警備しているという光景は珍しくなかった。彼が対抗するかのように掲げていたのが「ロックンロール十字軍」というスローガンだった。
ロックンロールを全国に広めるための進軍。ロックのメジャー化である。78年に資生堂のCMソング「時間よ止まれ」とアルバム「ゴールドラッシュ」がシングルとアルバムのチャート一位にランクされるまではそういう状況が続いたと言っていいだろう。「成りあがり」がベストセラーになり、当時の呼称を使えば「芸能人長者番付」の一位になった。78年8月28日の後楽園球場で行ったコンサートは、その頂点のように見えた。
東京ドームと後楽園球場の両方でコンサートを行っているソロアーティストは彼だけだ。
69歳のバースデイライブの本編最後の曲は後楽園球場でのアンコールの最後に歌われた「長い旅」だった。
80年代以降の矢沢永吉は活動の拠点を海外に移している。ロスで生活しレコーディングをロスとロンドンで行う。洋楽と拮抗する日本のロック。音のクオリティやミュージシャンの演奏レベルの向上という一つの指針になったのが彼のアルバムだろう。
81年のツアーにはドゥービー・ブラザーズのメンバーらロスの一流ミュージシャンとともに帰国して全国ツアーを行った。今回のバースデイライブにはその頃からの顔ぶれもいた。
ミュージシャンの選定だけでなく音響や照明、演出などすべてに関わってきたという意味でもロックコンサートのエンタテインメントとしての完成度で彼に先んじる存在はいなかった。
まだある。
キャロルが解散した後にメンバーに無断で発売したベストアルバムをめぐって所属レコード会社との裁判訴訟を起こしている。アメリカでの活動についての現地レコード会社と直接契約する、音楽制作のスタジオの設立、自らのレーベルの運営とマーチャンダイジングなどミュージシャンの権利。音楽ビジネスの新しい形をいち早く提唱してきた。若いミュージシャンにもそんな権利意識の必要性を事あるごとに訴えている。
音楽の質、そして環境。どうすれば既成勢力と戦えるか。それを身をもって示して来たのが矢沢永吉だった。
娘の矢沢洋子と「SUGAR DADDY」
矢沢永吉が東京ドームでバースデイコンサートを行ったのは還暦を迎えた2009年9月19日以来。あの時はシークレットゲストに氷室京介とザ・クロマニヨンズの甲本ヒロトが登場して78年の「黒く塗りつぶせ」を歌って客席を驚かせた。もう一人登場したゲストが娘の矢沢洋子だった。「お父さん、勘弁してよ。矢沢の名前はそれでなくても重いんだから」と断られたと苦笑いしながら、81年発売の全米発売アルバムの中の英語詞曲「SUGAR DADDY」を一緒に歌った。
「あれから9年。みなさんが見たいというんで、ちょっと引っ張り出そうと思います」と言ったのはソロデビューアルバムの中の「雨のハイウェイ」を歌った後だ。下手の袖を見ながら彼女を呼び出して9年前と同じ「SUGAR DADDY」を歌った。今も音楽活動やFM NACK5でのDJをつとめる彼女を心持ち照れたような笑顔で招き、歌う姿を見守る視線はカリスマ・矢沢永吉ではなく父親のそれだった。娘の成長を自分の音楽を聴いてきてくれたみんなに見てもらう。それもバースデイライブならではだった。
それにしても驚異的だったのは彼が全身で発散している熱量の高さだろう。声量や音圧、バンドと一体になって全身から発散されるエネルギーがドームを覆ってゆく。煽り立てるような激しさと絞り出すような狂おしさ。頬や目元に刻まれた皺や陰翳の深さも説得力になってゆく。現役感というのはこういうことだという証明のような3時間だった。
筆者が初めてキャロルを見たのは1972年12月16日。デビュー直前に赤坂のディスコで行われたクリスマスイベントでだ。
コンサート会場は、それぞれの人生を確かめる場。「さっき69になりましたと言ったけど、ほんとにここまで一緒に来たね」という彼の言葉にわが身を振り返ったであろう5万人の中に筆者もいた。
せめて69歳までは元気でいたいよね。だってロックだから。周囲でそんな軽口が交わされるようになったのはこの10年くらいだろう。
70歳の古希ではなく69歳を祝う。
だってロックなんだから。
矢沢永吉にはそんな洒落っ気がよく似合う。
(タケ)