「あの夏の日の思い出たち・4」
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
コンサートがロマンティックなのは、それが特別な時間であり空間であるということに尽きるかもしれない。
開演時間と終演時間。限られた時間が過ぎるとそれまでに目にしていたことは消えてしまう。自分の好きなアーティストの姿や声、そして、様々な照明に彩られたステージと客席との熱気や一体感。ステージが設置される前や撤去された後の殺風景な会場との落差が如実に物語っている。まさに幻の一夜である。
その感覚は野外ライブの方が一段と強いと言っていい。ホールコンサートの会場は曲がりなりにも屋根も建物もある。ステージはなくなっても建物を見ることで回想も出来る。でも、野外はそうはいかない。そこにステージがあったことの名残もない。
特に東京はそうだろう。会場跡地すら残っていない。たとえば、新宿の西口である。
1983年にあそこで「THE BIG GIG」という野外ライブが行われたことを覚えている人が、どのくらいいるだろうか。
誰もやってないところで
ライブを行ったのは甲斐バンド。74年にデビューした福岡出身の4人組。博多のライブハウス「照和」に出演していたバンドのメンバーで結成された。ほぼ全曲を作詞作曲していたのが甲斐よしひろ。テレビにもほとんど出ることなくコンサート活動で地力をつけ、79年にミリオンセラーになった「HERO/ヒーローになる時、それは今」で爆発的な人気を得ていた。
80年代のロック・シーンで彼らが開けた扉が二つある。
一つは「エンジニアの時代」という扉である。レコ―ディング技術がアナログからデジタルに移行する中でロックの音はそれまでと劇的に変わった。ドラムの音や個々の楽器の聞こえ方。それらを調整するエンジニアの重要性が飛躍的に高まって行った。81年から彼らが行っていたのがニューヨークのスタジオで活躍しているグラミー賞エンジニア、ボブ・マウンテンとの共同作業だった。ストーンズやロキシーミュージック、ブルース・スプリングスティーンなどのアルバムを手掛けた、世界のロックファン注目のエンジニアと作り上げた82年の「虜(TORIKO)」、83年「GOLD/黄金」、85年「ラヴ・マイナス・ゼロ」はニューヨーク三部作と言われている。
もう一つがコンサートの形である。80年に彼らが行ったのが箱根芦ノ湖畔のピクニックガーデン。吉田拓郎が75年の「つま恋」、79年の「篠島」で行ったものとは違うワンマンスタイルの野外イベント。81年9月に大阪の花園ラグビー場で行ったライブは開演と同時に1万人近い観客がステージに押しよせ、あわや事故寸前という事態になった。83年8月7日の「THE BIG GIG」は、満を持して東京で行った野外コンサート。「GIG」という言葉をタイトルに掲げた最初のイベントではないだろうか。
70年代のライブ関係者がそうだったように彼らのテーマも「誰もやってないところでやりたい」だった。会場となったのは当時の都有5号地。今、都庁が建っている場所だ。
まだ一帯には京王プラザホテルと新宿住友ビルくらいしか建っていない。会場の周囲は道路が囲っており、足を止めた通勤客が見下ろしている。高層ビルの夜景を借景にしたコンサート。ハイライトで道路を挟んだ反対側にある新宿住友ビルの壁に照明を当てるという演出はまさに都市型野外コンサートだった。