障害者と健常者は「地続き」であることを知る
このゼミでは、ゲスト講師陣の語るリアルな話が、学生達のリアルな反応を引き出すことに大きく貢献している。
例えば、ディスクレシア(知的な障害はないが、文字が歪んで見えるため読み取ることが難しい、書く文字はノートからはみ出してしまうなどの学習障害)の南雲明彦さん。思春期には、自分の症状の原因がディスクレシアだとわからなかったこともあり、家庭内暴力や自傷行為などに苦しんだが、今では、若々しくファッショナブルな雰囲気で外見からは障害者とはわからない。
そんな彼に、学生が「どういう支援をされたら気持ちがいいか」と質問すると、「それをしてくれる人のことが好きか嫌いかだよね、好きな人だったらなんだっていいよ」と答えたそうだ。学生にとっては、「障害者は、けなげで聖人というイメージがあり、よもや、支援者のことを好きか嫌いかという基準で見ているなんて思いもしなかった」、「自分では対等に接しているつもりでも、本当は対等だなんて思っていなかったんだ」と気付かされたという。
「障害者の性」をテーマに、脳性まひの小山内美智子さんや熊谷晋一郎さん(小児科医で東大准教授)、そして、盲ろうの福島智さん(東大教授)の3人の鼎談を行った際には、それぞれの赤裸々な性体験が語られ、学生達は圧倒されたという。
この鼎談に参加していた学生の一人は、次のように記している。
「小山内さんがボランティア学生と性的関係を持ってしまった話。カーテン一枚隔ててセックスしている施設の友人のために、横でラジオをかけて音をごまかしてあげた話。福島さんが全盲ろうになった後、相手の親に内緒でガールフレンドの家にいたとき、突然父親が帰ってきたために急いで潜り込んだ押入れの中で嗅いだホコリっぽい臭いが忘れられない話。熊谷さんが小さい頃に腹這い競争で健常者の友達に負けた時に、なぜかエクスタシーを感じた話。三人ともとても生き生きと話していた。エネルギーに満ち満ちていた。(中略) 『このおじさん、おばさんたち、なんか人生楽しんでいるな』そう思わせるオーラがあった」
「障害者」と一括りにされ、一つの抽象的なカテゴリーとして認識されていた存在が、眼前でひとりの人間として、自らを語り始めると、具体的な顔を持ち、リアルな実在として意識され、その印象はガラッと変わってくる。一人の女子学生は、このゼミに参加するまで、自分にとっての障害者とは「のっぺらぼう」だったと表現していたが、具体的に実際の障害者を知ることで、顔がついてきたという。
まずは、出会うこと、これが重要なのだ。
その上で、関係性ができ上がることによって、障害者と健常者とは線引きされるような存在ではなく、「地続き」であることが理解される。困っていること、悩んでいることを、リアルに語れば、「違い」は相対化され、近接してゆき、「同じ」という理解も生まれてくる。
現実の社会での障害者を取り巻く厳しい状況を考えれば、安易に「同じ」だとしてしまうことには留保が必要だが、「障害者」を一括して別の存在としてしまうことは、適切ではない。こうしたカテゴリー分けの不合理は、「東大生」というレッテルだって同じであろう。一口に障害者や東大生と言っても、一人ひとり違うし、同時に相互に似ている点もある。実際、本書に投稿している東大生達の生々しい告白を含む文章を読んでいくと、次第に、東大生というカテゴリーを外れて、一人ひとりが顔を持った存在と感じられていく。
要は、「障害者」だとか「東大生」などとレッテルを貼ってしまうと、見えなくなってしまうことが数多くあることを、自覚することなのだ。本書を通じて、若い感性が評者にそんな単純な事実を改めて教えてくれた。
JOJO(厚生労働省)