伯父の助言で映画を勉強
最初は東京23区の公立小学校へ転入した。フランス帰りというだけで好奇の目で見られ、なかなか馴染(なじ)めない。「僕も生意気(なまいき)だったので、事あるごとに『フランスでは......』と口に出してしまう。自己主張が強く、武闘派で喧嘩早(けんかっぱや)かったから」と苦笑する。
同じ日本人なのに、なぜ自分が「異邦人」扱いされるのか疑問に思った。翌年、帰国子女クラスがある国立大学附属小学校へ転校した。しかし、そこで一般学級とのあからさまな格差を思い知らされる。一般学級には受験で入学した優秀な生徒が揃い、カリキュラムも違って教育水準が高かった。
一方、海外から編入した帰国子女クラスは学力もまちまち。教室も隔てられた場所に設置され、遠く離れた給食室から運ぶ食事はいつも冷めていた。
ただ、帰国子女クラスで優秀な成績を収めると一般学級への編入が認められ、手のひらを返すように生徒たちが仲良くしてくれた。
卒業後、公立中学へ進み、後に鎌倉へ転居。地元の学校でサッカーに打ち込むが、その道は幼い日の夢で終わる。そして、高校時代に目覚めたのが「映画」への関心だった。
子どもの頃から映画に親しんできた。フランスのテレビでは名画がよく放映され、洋画好きな両親と一緒に観ていたのだ。高校で出会った美術教師も映画に造詣が深く、いろいろ教えてもらううちに興味がつのった。
「中学1年の時に北野武監督の映画『HANA-BI』が公開され、"日本映画もすごいんだな"と感動しました。インパクトある映像に惹かれて、高校生の頃から日本映画をどんどん観るようになりましたね」
『HANA-BI』は1997年ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。2000年代には青山真治、橋口亮輔など気鋭の新進監督が海外でも高く評価されていく。そうした日本映画に刺激され、自分も美大で映画制作を学びたいと思い始めるが、両親に反対されて進路に悩む。そんなとき伯父から、「映画を学問として勉強してはどうか?」と助言された。
伯父の清水徹は、マルグリット・デュラスの小説『愛人 ラマン』の翻訳で知られるフランス文学者で、かつて明治学院大学で教鞭をとっていた。同じ文学部に映画史の四方田犬彦(よもた・いぬひこ)や映画理論の斉藤綾子など面白い教授陣がいると勧められ、同大学仏文科へ進む。シネマ研究会で活動し、卒論は大好きな映画監督、大島渚の『愛のコリーダ』を題材にフランス語で書き上げた。