「あの夏の日の伝説たち・2」
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
ここ数年、大規模化する一方の夏フェスには二つの傾向がある。ひとつは一度にたくさんのバンドやアーティストを見ることが出来るという「お得感」を満たすもの、もう一つは出演者の数を競うだけではないテーマ性に沿ったものだ。でも比率としては前者がほとんどで後者の例の方が少ないというのが現実だろう。
その両者を備えていた稀有な例が1974年に福島県郡山市で行われた「ワンステップフェスティバル」である。
「街に緑を!若者に広場を!そして、大きな夢を!」
観客によるステージ占拠による中止というほろ苦い結末で終わってしまった第三回「全日本フォークジャンボリー」から3年後の74年夏。会場は郡山市の開成山陸上競技場。8月4,5日と8,9,10日。長期間に渡って行われたということでも前例のないイベントだった。
前例がない、ということで言えば、期間だけではない。そもそもの成り立ちから異例づくめだった。
発起人となった実行委員長、佐藤三郎は郡山市に代々続く老舗のブティック、つまり洋品店のオーナー。当時30代半ばの民間人。彼が私財を投げうって行ったイベントだった。
きっかけとなったのが69年にアメリカで行われたウッドストックである。地元のファッション業界の仲間たちとニューヨークに「勉強会」に行った帰りに寄ったハワイで見た「ウッドストック」の映画が彼を変えた。72年のことだ。帰国した彼は地元でミニコミ「ワンステップ」を創刊、ミニFMを開局。若者文化の発信源となって行った。
郡山ワンステップフェスティバルが、異例とされるのは、そうした成り立ちだけではない。イベント自体にテーマがあったからだ。彼が「ウッドストック」に見たもの、そして、そこから継承しようと思ったこと。それは「未来に向けた若者の力」だった。「ワンステップフェス」にはこんなスローガンが掲げられていた。
「街に緑を!若者に広場を!そして、大きな夢を!」
出演者は41組。デビューしたばかりのダウンタウン・ブギウギ・バンド、上田正樹&サウス・トゥ・サウスにキャロル、デビュー前のシュガー・ベイブ、ロンドン帰りの加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンド、人気絶頂だった沢田研二ら、当時のロックバンドのほとんどが集結していたと言って過言ではない。中には頭脳警察のように「スローガンが啓蒙的過ぎて自分たちのロックとは合わない」と出演を拒否したバンドもあった。
ウッドストックとオノ・ヨーコ
それだけのメンバーが集まったのは、出演者の中にウッドストックがイメージされていたからであることは間違いない。まだ東京にライブハウスが数店、ロックバンドには演奏する場所すら満足に見つけられない時代に野外で歌えることがどれだけ刺激的なことか。出演者は交通費などは別にしてノーギャラ。スタッフも同様だった。
もう一つの要因にオノ・ヨーコがあった。ビートルズが解散してまだ日も浅い。ジョン・レノンも活動中だ。イベントのスローガンは彼女がインタビューなどで発言している「日本は緑が少なくなった」から生まれた。
彼女との窓口になったのがプロデューサーも兼ねていた内田裕也と東芝EMIの石坂敬一でポスターを書いたのはロックのアルバムのジャケットなどで力作を発表していたイラストレーターの横尾忠則だった。
70年代の前半である。まだロックは市民権を得ていないに等しい。出演者の中で誰もが知っているというのは沢田研二くらい。お茶の間の人たちにとってはオノ・ヨーコですらそうだろう。当初は「郡山市市政50周年」という時期に合わせたイベントとして好意的だった行政や教育委員会が途中から18歳未満の参加禁止を打ち出し、非協力側に回るようになる。
理由は簡単。「長髪のヒッピーが街を汚しに来る」というネガティブ・キャンペーンにさらされることになった。
筆者が参加したのは8月9,10日の二日間。話題のキャロルやサディスィック・ミカ・バンド、大トリのオノ・ヨーコがお目当てだったことは言うまでもない。
まだ東北新幹線も開通していない。構成を担当していた文化放送の「セイ!ヤング」の生放送を終えてそのまま上野駅にかけつけ、朝一番の各駅停車で郡山に向かった。5時間以上かかって着いた駅前に長髪の若者たちの姿を見た時に「仲間がいる」と浮き立つような気分だったことを覚えている。でも、今思えば、のどかな地方都市でのそうした光景は確かに異様だったかもしれない。そうやって集まってきた若者たちの中に15歳の京都の中学生だった白井貴子がいたことを知ったのは最近のことだ。
2001の再会と21枚組のBOX
ただ、どんなに手弁当であっても2万人以上が集まる長期の野外コンサートは誰もが未経験。途中、豪雨で中止になり、出演者が他の日に急遽振り替えられるというトラブルもあった。主演者やスタッフの宿泊代もかかる。収支は大赤字。5千万円以上を主催者の佐藤三郎が負担せざるをえなかった。
彼にその後の話を聞いたのは25年後。雑誌「AERA」の中の人物インタビュー記事「現代の肖像」を書いた時だ。彼は、会場に残されたゴミの処理に一週間かかったと語ってくれた。最終的に所有していた土地や家を売り払い街を離れて暮らしていた中で「あのイベントをやらなければ良かった」とは口にしなかった。そして2001年、須賀川市で行われた福島の未来をテーマにした「うつくしま未来博」で「ワンステップフェスティバル2001」を開催、当時のスタッフや出演者の再会の場を提供していた。
郡山ワンステップフェスティバルは、その後、何度となく再評価の光が当てられている。2004年には当時は行方不明になっていた録音テープを使った4枚組ライブ盤、2013年には映像も含めた5枚組BOXが発売、去年の年末には出場者全41組のうち37組の演奏曲全曲を収めた膨大なライブアルバム21枚組BOXも出た。
協賛する大手スポンサーもなければ後援するメディアもない。業界とは何の接点もない地方都市の青年が全財産を投げうって行った空前のロック・フェス。それは行う側、出る側、そして見る側のそれぞれにとってウッドストックがピークとなった60年代後半のフラワームーブメントやロック幻想による日本で最も象徴的な出来事でもあったのだと思う。
佐藤三郎も石坂敬一もすでにこの世にいない。会場にいた延べ数万人の観客の記憶と残された音源が、「夢の証し」としていくつもの教訓とともに語り継がれてゆく。
(タケ)