2016年、元プロ野球選手・清原和博氏が覚せい剤取締法違反で逮捕され、有罪判決を受けた。球界で存在感の大きな選手だっただけに大々的に報じられた。
しかし、これは氷山の一角である。違法薬物を摂取した経験のある日本人は267万人といわれる。違法薬物が怖いのは、肉体も精神も蝕(むしば)む強い依存性があることだ。
医学的、薬学的な治療法の確立を
清原氏は、スポーツ総合雑誌『Number』(930号、2017年7月)のインタビューで、「精神力が強いから止められるとか、そういうものではない」と語り、薬物との戦いは一生続いていくと覚悟している。
今のところ依存者の治療プログラムには、清原氏が受けているようなカウンセリングで、薬の誘惑に負けそうなときの対処法を学んだりする方法がある。
他にも薬物依存を経験した人たちが集まって体験を語り合いながらお互いを支えていく自助グループの活動もある。こうした方法が功を奏している人もいるが、完全ではなく、半数以上が再び罪をおかす。
医学的、薬学的な治療法の確立が待たれるが、可能性を探る研究は地道に行なわれている。その一つが藤田保健衛生大学大学院の研究グループである。医学博士の齋藤邦明教授と薬学博士の鍋島俊隆客員教授らは、韓国の国立江原(カンウォン)大学と共同でプロジェクトを立ち上げた。
実は鍋島氏と国立江原大学の金瀅春(キム・ヒョンチュン)教授との共同研究の歴史は1996年から20年以上に及ぶ。今回の共同研究は、韓国でも、違法薬物を摂取した経験のある人が135万人を数えることも背景にある。両国の共通した社会問題を解決しようという貴重な試みを、公益財団法人韓昌祐・哲文化財団が助成した。
薬物依存に対する医学的なアプローチの歴史を辿(たど)りながら、日韓共同研究とは、どのようなものなのかを紹介しよう。
「スーパーマンになれる薬」
鍋島氏が薬物依存に関わりはじめたのは1978年、米国に留学したときである。当時、薬物乱用が米国で大きな社会問題になっていた。その薬の名はフェンサイクリジン。
「もともとは、1950年代に麻酔薬として開発されました。ただ、麻酔から覚めたときに、患者さんの3割が幻覚を経験しました。また暴力を振るうといった副作用もあったので、人には許可されませんでした」
ところが動物の麻酔用には許可されたため、違法に入手する輩(やから)が続出した。たとえば幻覚を期待する者、あるいは痛みを感じないので、「スーパーマンになれる薬」とも言われたことから、素手でガラスを割ったり、ビルから飛び降りたりする人が出た。
なぜ、こうしたことが起きるのか。鍋島氏は研究を始めた。
薬を使うと三つの特徴があらわれた。部屋の中をぐるぐる回ったり、顔を何度も洗ったりする「陽性症状」、逆に何もやる気が起きず、社会性のある行動ができない「陰性症状」、さらには記憶・学習に支障をきたす「認知障害」だった。
誰も治療法にたどり着けず
フェンサイクリジンを使うと、脳内でドーパミンが増えることがわかってきた。ドーパミンは美味しいものを食べたときやセックスのときにも分泌される快楽物質だ。動物実験でレバーを押すとドーパミンがでる体験をマウスにさせると、餌(えさ)より快楽のほうが強いので、餌も食べずに、死ぬまでレバーを押す。それほどドーパミンがもつ快楽レベルは高いのだ。
「世界中の研究者が、ドーパミンをターゲットに、治療法を発見しようと実験を試みました。何十年にもわたって試行錯誤されてきましたが、誰も治療法にたどり着けませんでした」(鍋島氏)
その間、鍋島氏はフェンサイクリジンに関する論文を132本も書いている。その過程で注目したのは、人が学習したり記憶したりする働きに重要な役割を担っている「NMDA受容体」だった。
NMDA受容体とは通常、カルシウムを適度に体に取り込んで、人に学習や記憶をさせやすいように働いている。ところが、フェンサイクリジンが入ると、その働きを邪魔して、カルシウムを取り込ませないようにする。そのため意欲や学習・記憶機能など認知機能に支障を来たすことになる。
「フェンサイクリジンなどの強い薬物が体内に入ると、体の中にある物質が酵素で代謝されていく通常のプロセスがかき乱されることがあります。そうした『基軸のズレ』が一カ所で生じると、そこだけに止まらず複数のところでバランスが崩れてしまい、肉体・精神に異常を来たすことになります」(齋藤氏)
清原氏は先のインタビューで、脳が一度快感を覚えてしまうと、自分の意思と関係なく、薬を使うことが最優先になってしまうと述べている。通常、家族や友人、仕事などが優先されていたものが、依存症になると薬物摂取が最優先されてしまう。代謝経路の基軸のズレが、生体の思考のズレにつながってしまうのだろう。
朝鮮人参に着目
今回の日韓共同研究プロジェクトで、研究対象になるのは、トリプトファンである。トリプトファンとは、代謝の段階で、「睡眠ホルモン」の異名をとるメラトニンや「幸せホルモン」ともいわれるセロトニンを作る必須アミノ酸の一つだ。
しかし、トリプトファンは炎症によって基軸のズレが起きる。すでに齋藤氏らは、マウスを使った研究で、代謝の基軸のズレを起していることを確認している。
齋藤氏は次のように説明する。
「トリプトファンの代謝のプロセスで、キヌレン酸という物質ができます。その量が異常に増えると、それがNMDA受容体に作用し、記憶障害を起こしたりします。また代謝の乱れでセロトニンが生成されにくくなり、その結果、抑うつ状態になったり、薬物依存につながったりするのです」
そうした「代謝の基軸のズレ」を修復する物質を、日韓研究プロジェクトで見つけようとしている。
日韓共同で乱用薬物に関連する論文はすでに60本以上、国際学術誌に発表している。今回発足したプロジェクトで注目しているのは、朝鮮人参(Ginseng)である。薬物依存のマウスを使った研究で、朝鮮人参が炎症を抑える効果があったことを、日韓の研究者はみつけている。
今後は、朝鮮人参などに含まれるフィトケミカル(植物由来の化学物質)がどの程度、代謝の正常化に役立つかを調べていく予定だ。
同時に、依存のメカニズムを解明して、依存症を治療する薬の創出にもつなげていきたいという。
治療のアプローチを考えるとき、どうすれば「依存症」が根絶できるかをイメージしてしまうが、鍋島氏は前記の認知療法的なアプローチを考えているようだ。
「覚せい剤などを使う人は、何をやっても面白くなく、何をやっていいかわからない人、意欲のない人が多いです。そういうところに薬物がしのび込む。ならば、朝鮮人参などで代謝を正常化させ、何かをやりたいという意欲を回復させる。何かに取り組むときの学習能力を改善させてあげれば、いい循環になっていく。そうなれば、覚せい剤など使う必要がなくなってしまうはずなのです」
確かに清原氏もインタビューで、薬物に走った理由として、現役引退した後の虚脱感、寂しさ、将来の不安などをあげている。治療によって、低下していた意欲をアップさせ、学習・記憶する力が正常化されれば、健全な形でドーパミンを出せる体が戻ってくる。
6月上旬、冒頭に述べた日韓の研究者が韓国に集まり、今回の共同研究のキックオフミーティングが行なわれた。齋藤氏によると、今回の研究を二国間でやる意味には、「若い世代の研究者を育成していくこと」も含まれているという。
2006年、国連広報センターが発表した世界薬物報告によると、約2億人が過去12か月以内に1度は薬物を使用したことがあるという。薬物依存は国家に経済的損失をもたらす。根本的な治療法がみつかれば、経済だけでなく生活の質(QOL)において改善が図られ、大きな貢献がもたらされる。この研究への期待度は大きい。
(ノンフィクションライター 西所正道)