テレビカメラへの不満
彼らの主張は「商業主義粉砕」だった。
伏線はいくつかあった。
一つは会場に入っていたテレビカメラに対しての不満。彼らにとって「テレビ」は商業主義のシンボルであり自分たちの音楽とは相いれないものだった。二つ目は出演者の顔ぶれの幅広さに対しての不満。そうした出演者の演奏中に「岡林を出せ」という野次が飛んだりしていた。三つめは初めて経験する野外コンサートへの不慣れからくる不満だろう。
吉田拓郎がサブステージ出演中にステージの電源が切れた。彼は同じステージですでに出番の終わっていた小室等の六文銭を呼び一緒に「人間なんて」を歌い始める。実際は30分から40分だっただろうと言われている即興演奏。アルコールも入ってトランス状態になった客席に小室等が口にした「メインステージに行こう」という呼びかけがきっかけになって数百人がメインステージに隊列を組んで向かってゆく。
いくつもの要因や条件が重なって、メインステージは深夜の野外討論の場となり、そのまま終わってしまった。
第三回中津川フォークジャンボリーは「伝説の野外イベント」と語り継がれている。
それは、アマチャアの音楽として始まったフォークソングが時代の音楽になり、商業化してゆく過程の象徴的な出来事だったからだ。
翌、1971年11月、上條恒彦と六文銭の「出発の歌」が世界歌謡祭のグランプリを獲得、72年1月、吉田拓郎の「結婚しようよ」が大ヒットして状況が変わる。
ウッドストックに憧れた若者たちが夏の伝説を生み出すようになるのはこの後からだった。
(タケ)