71年の三回目が転機
すでに何度か触れてきているが、当時のフォークソングには「関東」と「関西」があった。
アメリカの学生たちが「埋もれた民謡の発掘を」と始めたのが50年代の「モダンフォーク」という運動である。PPM(ピーター・ポール・アンド・マリー)やジョーン・バエズ、ブラザース・フォアらに影響され同じように英語で歌い始めていたのがマイク真木や森山良子ら東京の学生たち、そこに日本語で社会的なメッセージを込めて歌ったのが高石ともや岡林信康ら関西の若者たちだった。
そうやって関西フォークに賛同した若者たちの「手作りの祭り」は、翌年から様相が変わる。
アメリカでウッドストックの映画が公開され、その情報が日本に入ってくる。そんな夢のようなことが出来るのかと色めき立った日本の音楽関係者の間で「フェス」という言葉が飛び交うようになり「中津川フォークジャンボリー」の存在がクローズアップされてゆく。
第二回は70年8月8日から9日にかけて。観客は約8000人。出演者も一回目の顔ぶれに加えて浅川マキや六文銭、はっぴえいんどら関東のミュージシャンも参加。東京のメジャーなレコード会社、キングレコードが機材車を持ち込んで収録、テレビマンユニオンがドキュメンタリーを撮影するようになった。
そういう意味でも歴史的な転機となったのが、71年の第三回だった。
映画「ウッドストック」が日本で公開、初来日するピンクフロイドが箱根の野外イベント「箱根アフロディーテ」に出場することが決まり日本の音楽史上初の「フェスの夏」がやってくる。「中津川フォークジャンボリー」は「日本版ウッドストック」として注目されることになる。出演者の希望が相次ぎ、かまやつひろしや五輪真弓、GARO、長谷川きよし、カルメンマキ、友部正人、加川良など関東・関西の枠を超えて活躍していたアーティストたちが大集結することになった。
増え続ける出演者に対応するために日程は1971年8月7日から9日にかけての三日間になった。ステージもメインとサブの三か所。観客は2万人を超える空前の規模となった。
ただ、日程は最後まで消化されることはなかった。
三日間の予定で始まったライブは二日目の夜、8月8日の夜にメインステージが「商業主義粉砕」を叫ぶ集団に占拠され、そのまま流会となってしまった。