7月4日はアメリカ独立記念日です。そもそもの国の名前に「合衆国=ユナイテッド・ステイツ」が入っているアメリカは、力が落ちたといわれますが、いまだに世界に強い影響力を及ぼしています。
そんなアメリカの建国は遅く、先進国の中ではもっとも歴史が浅い国といってもいいでしょう。クラシック音楽の歴史においても、アメリカ最初の作曲家、と呼ばれるスティーブン・フォスター(彼も偶然ですが、7月4日が誕生日です。)は1826年生まれで、ショパンやシューマンやリストといったロマン派初期の中心人物たちより、15歳以上年下です。
やはり、アメリカの音楽の伝統も日が浅いと言わざるを得ません。
しかし、19世紀の欧州で起こった産業革命は、新大陸アメリカで巨大な工業力となって一層花開き、その工場が送り出したたくさんの資材と武器が、20世紀になり旧大陸で起こった「世界大戦」の決着をつける原動力になります。芸術の面においても、ヨーロッパで迫害を受けたたくさんのアーティストが、命を守り自由を享受するためにアメリカに向かい、結果的にアメリカの芸術レヴェルを大きく引き上げることになります。
宗主国・英国とともどもクラシック音楽では劣勢の米国
もともとの宗主国、同じく英語が公用語、ということでアメリカと結びつきの強いイギリスも実は、クラシック音楽においては、欧州の中で立場は弱く、イタリアやドイツやフランスに押され気味です。文学では巨大な才能を生み出しましたが、大陸ヨーロッパの国々から少し離れていたせいでしょうか、イギリスの音楽は現在でもあまり高く評価されていません。
そんな中でも輝きを放った、20世紀のイギリスを代表する作曲家、ベンジャミン・ブリテン(1913~1976)の、アメリカにまつわる1曲を取り上げましょう。その名もずばり、「アメリカ序曲」(An American Overture)です。
1936年、ナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次大戦がはじまると、自分の良心に従って、兵役を拒否することを決めていたブリテンは、アメリカにわたります。ニューヨークに3年弱住んで、イギリスに再び帰国し、正式に兵役を免除され創作活動に専念することになるのですが、アメリカ滞在中にもブリテンは筆を休めませんでした。当時の大日本帝国が皇紀2600年を祝うために委嘱してきたのに応えて書いた「シンフォニア・ダ・レクイエム」や、傑作といわれる弦楽四重奏曲第1番など、北米ニューヨークにあっても、ブリテンの筆の進みは順調でした。
1941年、彼は、オハイオ州のクリーブランド管弦楽団の指揮者、アルトゥール・ロジンスキーの依頼に応えて「オケージョナル(偶発的)序曲」という曲を書きました。確かに、作曲料を受け取って、ちゃんと作曲した作品なのですが、戦争期の混乱か、不思議なことに、初演されることはありませんでした。さらに、ブリテンは、イギリスに戻るときに、この曲の自筆譜をアメリカに残していってしまったのです。
徴兵拒否し渡ったNYで作曲も幻になった「オケージョナル序曲」
そして......ブリテン自身が、この曲を作曲したことを、「完璧に」忘れてしまったのです。そんなことがあるかと驚くばかりですが、ブリテンは、1972年にニューヨーク公立図書館に所蔵されていた、自筆譜を見せられるまで、本当にすっかりその存在を忘れていたのです。その証拠に、「オケージョナル序曲」という同じタイトルで、作品番号38の全く別の曲を作ってしまっていました。
作曲家自身に忘れられ、30年後に、アメリカで再発見されたこの曲は、改めて「アメリカ序曲」と名前を変えて、1983年、サイモン・ラトルが指揮するイギリスのバーミンガム市交響楽団によって、やっと初演されたのです。
アメリカの作曲家、A.コープランドの影響が感じられるこの曲は、時として難解なこともあるブリテンの作品としては、意外なほど素朴で聞きやすく、演奏時間も10分ほどで、近年では、演奏会のオープニングなどに取り上げられることも多くなっています。埋もれさせておくには惜しい、素敵なオーケストラ曲です。
「アメリカ序曲」を作曲し終えた頃のブリテンは、戦争に巻き込まれた祖国イギリスに帰ろうと、ニューヨークの埠頭で、乗船の順番を待っている状態でした。そしてこのころは、アメリカ大陸に渡っても、そして祖国に帰っても創作力旺盛だったブリテンが、数か月ほど作品を書いていないとされる「空白期間」だったのです。祖国へ戻りたい、とはやる気持ちが、「アメリカ序曲」の存在をすっかり忘却させてしまったのでしょうか?
本田聖嗣