髭を伸ばしつづける権利の創設
このような道具立てのもとで、本書は、例えば、髭(ひげ)を伸ばしつづける権利が憲法上の権利として保護されるかどうか(A)、さらに奴隷にならない権利が保護されるかどうか(B)を検討している。憲法上の権利とは、立法権、すなわち多数の権力に対する保護を与えることを意味している。権利とは、全員一致ルールのもとで各人に拒否権を与えるのと同等の機能を果たすものであり、しかもいちいち会議を招集しなくてもよいぶんだけ費用を安くすませることができる(誰かの髭を剃るかどうかを決めるために、皆に集まってもらうのは効率が悪い)。
そう考えると、立憲段階にある人々は、自分あるいはその子孫が将来髭をたくわえたくなる可能性があると考えるであろうから、強制的に髭を剃らせる将来の立法から身を守るため、髭を伸ばしつづける権利を憲法上の権利に含めようとするだろう。
奴隷の場合(B)でも同様に、奴隷にされない権利が認められるのが通常の場合であろう。ただし、アメリカ合衆国建国の際には、制憲過程に参画した者たちは、人種的偏見もあり、自分や自分の子孫が奴隷に転落する可能性を感じておらず、結果、奴隷制が許容されたということになる。
なにか天から降ってくるもののように語られることのある権利なるものが、実のところ、様々な利害と不確実性の構造からダイナミックに創設されたり、されなかったりすることを、ゲーム理論のロジックに沿って体験することは、なかなか刺激に満ちた時間である。
このように考えることは、権利がまとっていた神聖さを幾分損なうであろうが、一方、利害に根ざした確固たる基礎を持つものとして権利を見出すことへと我々を導く。ここで評者は、デイビッド・ヒューム(1711~1776)のことを思い出す。ヒュームによれば、所有権という基本的権利でさえも、利益に根ざした人間の合意(convention)という人為によって確立されたものだという。ここでヒュームに遭遇したのは、なんら奇妙なことではない。ヒュームは本質的な意味でゲーム理論の先駆者なのであり、ここにまた我々はヒュームという希代の天才の掌の上で踊らされていることに思い至り、苦笑するのである。
本書は法学者などゲーム理論の専門家ではない層に理解できるように書かれている。高等な数学の知識がなくても理解できるため、ゲーム理論の入門書、なによりもゲーム理論の面白さを会得する上で格好の読み物としても手に取ることができるだろう。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion