明るさの陰に潜む異形の存在
現代の都市型生活にあっては、漆黒の闇の何物かを畏れる機会はほぼないが、 本書に見るような畏れを持つことは、かつては生活上大切な地位を占めていたのかも知れない。
すなわち、穢れへの畏れが神への信仰に転換するという民俗学の仮説(新谷尚紀著『ケガレからカミへ』)を思うと、畏れと信仰は一体だったのではないか、ということだ。江戸期までの日本人が自然と巧みに共存してきたことは、この畏れと無縁ではないように思われる。
同様に、現代人にあっても、超自然的な何物かの存在は信じなくとも、科学的に説明できぬ分野を承っておくことは、傲慢な人間存在を謙虚にさせる効用が期待できるのではないか。この点、人間を信仰から切り離し自信過剰に仕立ててきた科学が、環境破壊に警鐘を鳴らし質素な生活を推奨するに至るのは、皮肉なことである。
そんなことを思いつつ読み進めていると、狐火は不法を企む人間が密かに山に入った明かりだ、との記述に行き当たった。
なるほど真に恐ろしいのは化物ではなく人間だろう。夜釣りで、野犬の気配は恐れずとも明かりなく近づく人影に身構えた経験を思い出し、苦笑せざるを得なかった。
だがその苦笑も、「恐ろしきは人間」からの次の連想で立ち消えてしまった。
明るいはずの都市で起きた、児童虐待や拉致殺人、違法建築物の倒壊などという陰惨な事件・事故が、否応なく思い出されたからである。
怯える人の心の中に棲んで怪奇現象を見せる何物かは不確かな存在に過ぎぬ。だが、故意であれ過失であれ加害する側の心裡には、確実に異形の何物かが潜んでいる。
この異形の何物かの生育を阻む力は、残念ながら現代科学にはなく、さりとて畏れと信仰の時代への逆行もあるまい。やはり人間が作るシステムを人間が運用する中で、不断に改善していくしかない。
そこに不可欠なのは共感と強い意思力であろう。「公」を支える者の責任重きことを、改めて痛覚する次第である。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)