ファンなら知ってる「旅立ち伝説」
福山雅治にはファンなら知らない人はいないという「旅立ち伝説」がある。
中学生の時に浜田省吾、泉谷しげる、ARB、モッズ、SIONら日本のロックに影響されてバンドを始め、高校を出てから一旦は就職したものの夢捨てがたく、愛用のバイクを売った20万円を資金に上京した。長崎の駅に見送りに来た彼女に「音楽をやる」と言えずに「古着屋になる」と偽っての旅立ち。材木屋でのアルバイトのために最初に暮らしたのは東京の外れ、福生だった。シングル「追憶の雨の中」でデビューしたのは90年3月。21歳になっていた。
デビュー翌年、新宿のライブハウスで初めて見た22歳の印象は「イメージが先行し過ぎて空回りしているよう」だった。
彼のことを知ったのは音楽ではなくテレビドラマという人の方が多いのかもしれない。俳優としての人気の爆発的な高まりと音楽への情熱の両立。90年代前半の5年間は、そのバランスとの闘いだったように思う。94年に最初のミリオンセラーを出した後、96年、97年と活動を休止して音楽や表現活動を模索しつつカメラを手に世界を旅したこともある。当時のアルバムには自分の内面の葛藤を歌にした曲が必ずと言っていいほど入っていた。
そういう意味で「年齢相応」を味方につけたように思えたのが2009年に発売された40代最初のアルバム「残響」だった。前年にNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の主役が発表された後の新作。上京した当時はなじめなかった東京に対しての心情を歌った「東京にもあったんだ」や旅立ちの頃を振り返った「18~eighteen~」、祖母の手を題材に「生命の道」を歌った「道標」と、それまでには歌えなかったと思える曲がアルバムの中核になっていた。
そして、2010年の「龍馬伝」である。
もし、あのドラマがなかったら、自分の音楽人生と日本の歴史という大きな視点は一致していなかったかもしれない。歴史上の人物を演じただけでなく一人の人間の「生き方」として重なりあう。40代になったからこその出会い。思慮分別のあるシンガー・ソングライターのヒューマニズム。2011年の「家族になろうよ」は東日本大震災をどう受け止めたのかの証しだろう。そんな流れの到達点が2014年の初の二枚組アルバム「HUMAN」だった。