加山雄三とともにその後の「若者たちの歌」の源流
荒木一郎は1944年生まれ。母親は女優の荒木道子。子供の頃から文学座の舞台を踏み、NHKのテレビドラマ「バス通り裏」の御用聞きの若者でお茶の間に知られるようになった。青山学院の高校時代からジャズバンドを組んでドラムを叩いていた。デビュー曲の「空に星があるように」は、「フォーク」という言葉が世間的に使われるきっかけになったマイク真木の「バラが咲いた」が発売された半年後だ。
誰でもすぐに弾けるシンプルなコードを使った「バラが咲いた」とは違うアコースティック・ギターの弦の響きとストリングス。季節の移り変わりに託した思春期のセンチメンタルな物思いの抒情。モノローグのようでリズムに寄り添った歌は、それまでにきいたことのない洗練された瑞々しいものだった。そんな音楽がジャズバンドでドラムを叩いていたからこそだったと知るのは相当に後のことだ。
そういう意味ではロックの加山雄三、ジャズの荒木一郎ということになるのかもしれない。
いずれにせよ、ザ・フォーク・クルセダーズも岡林信康も吉田拓郎も出る前だ。荒木一郎でギターに目覚めたという若者も多かったのではないだろうか。「空に星があるように」は、名古屋の東海ラジオが制作、全国で放送されていた「星に歌おう」の主題歌。DJは彼だ。若者向けDJトーク番組から生まれた最初のヒット曲と言っていいのではないだろうか。
その年に出たファーストアルバムのタイトルは「ある若者の歌」。GSも含めたロックバンドに影響を与えていった加山雄三とシンガー・ソングライターの幕開けとなった荒木一郎。その後の「若者たちの歌」の源流に二人がいた。
ただ、荒木一郎が音楽シーンで活躍していた時間は長くない。才能ある革新的な若者が時に業界の古い手法や体制と衝突し、違う道を歩まざるをえなくなる一例と言っていいのだろう。女性関係のスキャンダルをきっかけに絶頂の69年から3年間、芸能界から「干された」状態で表舞台から姿を消してしまう。その間にもまだ珍しかった自主レーベルを立ち上げたり、プロデュースや俳優としても活動するようになっていた。
再び、音楽活動に戻るのは74年。既成のレコード会社ではなく69年に音響メーカーが立ち上げた新興のトリオレコ-ド。75年のアルバム「君に捧げるほろ苦いブルース」は、そこでの三作目だった。彼は30代になっていた。