タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
それはあたかも「伝言ゲーム」のようなものかもしれない。間に介在する人の数が増えることで、最初の言葉が少しづつ変わっていく。人の数や時が経つに連れてその「誤差」が広がって行く。気づいた時には全く違う言葉になっている。
音楽の伝わり方もそれに近いものがあるのかもしれない。その時代には同じように称されていたものの、いつのまにか一方が年々脚光を浴びてゆき、片や人々の記憶からも薄れていくようになる。
「自作自演歌手」
6月になるとふっと思い出すアーティストがいる。
荒木一郎である。
なぜ6月になると彼のことを思い出すのか。
簡単である。好きな曲があるからだ。1975年に発売された彼のシングル「君に捧げるほろ苦いブルース」の中に、こんな一節がある。
「六月の空を見ればまぶしすぎる僕だよ」
60年代後半、日本の大衆音楽は二つの「革命」を経験した。一つは「エレキ」だ。ベンチャーズに始まったエレキギターのブームは、ビートルズやローリングストーンズに象徴されるイギリスのロックバンドが登場することによって日本でも爆発的な現象になった。そんな流れの「黒船襲来」となったのが66年6月のビートルズ来日だった。
もう一つが「自作自演」である。自分で詞も曲も書いて自ら歌うスタイルは当時そう呼ばれた。70年代に定着した「シンガー・ソングライター」という言葉はまだ日本に入ってきていない。
作詞家・作曲家・歌手というそれぞれがレコード会社の専属という分業の時代に、すべてを一人でやってしまう若者の登場。66年9月に「空に星があるように」でデビューした荒木一郎は、レコード大賞の最優秀新人賞を受賞。彼のことを紹介する新聞記事の見出しに決まって使われていたのが「自作自演歌手」だった。その時、同じように新人賞を受賞した女性が加藤登紀子。最終的にレコード大賞は取れなかったものの下馬評で最も有力だったのが加山雄三の「君といつまでも」である。大賞は橋幸夫の「霧氷」。これは余談になるのだが、加山雄三の「君といつまでも」が選ばれなかったのは、事前に「自分は映画俳優」と発言していたことが影響した、と当時の審査委員、伊奈一男さんに話を聞いたことがある。若者たちにエレキギターを広めた最大の功労者が「若大将・加山雄三」だった。
荒木一郎は、加山雄三と並ぶ、当時の新しい音楽の象徴的存在だった。