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■『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』(ジョージ・エインズリー著、NTT出版)

意志の存在理由を理解するための「コロンブスの卵」

   『誘惑される意志』(2006年、原著2001年)は、「コロンブスの卵」を地でいく書物である。

   本書は異時点間の選択といわれる問題、つまり、今日の利益とより大きな明日の利益のどちらを選ぶかという問題を論じた書物である。評者はこの問題を、大阪大学の池田新介教授の『自滅する選択』への評として論じたことがある(『自制という厄介な問題にみな悩んでいる』(2018年2月)が、本書『誘惑』はその射程の長さにおいて際立っている。

   『誘惑』のエインズリーは、この異時点間の選択の問題から、我々の持つ意志の存在理由まで説明してしまおうというのである。18年2月の評でも触れた通り、人間は、経済学や投資の世界で通常想定する指数関数で割り引くのではなく、直近のものは非常に高く評価する一方で、わずかでも時間をおくと、急速に評価を割り引く、すなわち、双曲関数で将来の出来事を割り引いているようである。そして、エインズリーによれば、意志の存在理由とは、目先の利益に流される自己を、長期的利害を考慮するもうひとりの自己が制御しようと努めることにあるというのである。

「チョコレートを食べないほうがいいと推計し、その推計だけで食べていけない理由として充分なら、意志などという仕掛けがそこに入り込む必要はあるだろうか?」

   なるほど。たしかに彼のいう通り。意志とは近視眼的な自分への対抗手段として捻出されたものにほかならない。

将来の自分たちが手にいれる結果に対する、現在の自分の影響力

   衝動的な自己と意志の関係を、エインズリーは複数の自己の間の交渉ととらえて議論を進めている。行動経済学者によって、この枠組みは精緻に展開されるようになっている。そのなかで、エインズリーの魅力は、おそらく彼の文学的才能からくるものであろう、その交渉の核心の把握とそのプレゼンテーションの冴えにある。

   刹那の自己はその場限りの存在であるから、誘惑に負けたとしても、報復されることはない。事後の自分が過去の自分に罰を与えることはできない。ならば、どこで交渉はおこなわれるのだろうか。エインズリーはいう。「現在の自分の選択に影響する脅威は未来の自分による遡及的な報復ではない。将来の自分たちが手にいれる結果に対し、現在の自分の影響力を失うリスクだ」。交渉ゲームの掛け金は、将来に対する現在の自己の影響力なのだ。

   そして、エインズリーはつづける。「自我は......利益同士の協力を仲介するブローカーであり、そして利益たちと同じく、それ自体も各種報酬によって生み出され形成される―つまり短期的報酬からうまく防衛することでもたらされる、長期的報酬によって作られる」。

   我が国の財政運営に類比することが許されるなら、我々がすでに「将来の自分たちが手にいれる結果に対する、現在の自分の影響力」を失っているのでなければよいのだけれども......

意識的存在についての興味深いものと思われる帰結

   最後に、意思の存在理由に関するエインズリーの議論がもたらす、興味深い(ものと評者には思われる)帰結に触れて評を締めくくりたい。

   心理学の実験では、人間以外の動物、例えばハトにおいてさえも、双曲割引による衝動の抑制が試みられていることが知られている。ならば、ハトもまた我々人間と同じく意志を持つことになる。そして、この事実は、我々人間がその特権の拠り所として大切にしている、意識までもハトが持つことにつながる。我々の意識において重要なことは自己言及性、すなわち、自分自身を外から眺め、操作の対象となしうることにある。そう考えるなら、ハトもまた我々と同じく意識的な存在であることは揺るぎない事実となる。人間の場合、自分を眺める自分自身さえも外部からみることができる、という意味で高階の意識をもつとの反論も予想できる。ただ、果たして我々がこの高階の意識を持つという主張は本当のことだろうか。この高階の意識が、我々が記憶を参照することを通じて生まれる幻であるということはないのか。

   意識的存在は世界のそちこちに散らばっている。

経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。
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