時代が違えば「演歌の女王」に収まってはいなかった
ただ、彼女のキャリアは時代によって変わって行く。
それが最も顕著だったのが1960年代だろう。
美空ひばりに限らず、洋楽と邦楽が交わりながら日本の音楽として広まった時代だ。
一昨年、還暦を迎えた桑田佳祐が発売したDVD「THE ROOTS~偉大なる歌謡曲に感謝」の中に彼女の1961年の「車屋さん」が取り上げられていた。作詞作曲は異才として知られる米山正夫。何しろ、一つの曲の中にジャズと都都逸が織り込まれているという和洋折衷の極致のような曲だ。ジャズの粋と江戸情緒のいなせ。成熟した艶っぽさは23歳とは思えない。「ロカビリー芸者」「すたこらマンボ」「ひばりのドドンパ」「ギター追分」、、、。シングル盤のタイトルである。最新の洋楽リズムを取り入れた歌謡ロック。その最たるものがグループサウンズのジャッキー吉川とブルーコメッツを起用した「真っ赤な太陽」だったことは言うまでもない。
もし、時代が違っていたら、彼女はどんな評価をされていただろう。改めてそう思ったのは60年代に彼女が残しているジャズアルバムがある。1961年「ひばりとシャープ」、1964年「ひばり世界を歌う」、1965年「ひばりジャズを歌う~ナット・キング・コールをしのんで」の3枚がそれだ。演奏しているのは戦後のジャズのビッグバンドの中心人物、ひばりの専属バンドだったこともある原信夫とシャープス&フラッツ。「真っ赤な太陽」の作曲者である。特にナット・キング・コールの代表曲を歌った「ひばりジャズを歌う」は、今聞いても舌を巻くほどの消化力を聞かせてくれる。音楽ファンなら知らない人のいないスタンダート「スターダスト」の甘美さを聴いてほしい。
今、91歳の原信夫は「J-POP LEGEND FORUM」での筆者のインタビューに「英語が話せるわけでもないのにリズムに同化している。天性としかいいようがないノリの持ち主だった」と話してくれた。
もし、時代が違ったら、と思わせてくれたアルバムがもう一枚ある。74年に出たライブアルバム「ひばり いん あめりか」である。73年にロサンジェルス、サンフランシスコ、シアトルで行われたライブの模様を収めている。演奏はフランク・シナトラのバックで知られたネルソン・リドル・オーケストラ。歌われている曲の中には「東京キッド」や「越後獅子」から「ひばりの佐渡情話」や「悲しい酒」もある。アンコールはシナトラの「MY WAY」。スイングするビッグバンドの演奏に乗った気持ちよさそうな彼女の歌いっぷりは国境を越えている。
同じ74年には広島の原爆をテーマにした反戦歌、「一本の鉛筆」もシングルになった。更に、75年にはフォークシンガーの岡林信康が書いた「月の夜汽車」も歌っている。もし、時代が違ったら、少なくとも彼女は「演歌の女王」に収まってはいなかったはずだ。
5月29日は彼女の81歳の誕生日だ。
去年、80歳を記念して東京ドームで「生誕80年祭」が行われた。AKBグループ、クリスタル・ケイ、さだまさし、JUJU、坂本冬美、氷川きよし、五木ひろしら22組が歌う彼女の曲は、改めてその存在の大きさを再認識させてくれた。
そのプロデューサーだった息子の加藤和也は、彼の生い立ちや時代の波に翻弄されたファミリーについて綴った自著「みんな笑って死んでいった」(文芸春秋刊)でこう書いている。
「美空ひばりはけっして演歌歌手ではなく、時代が一番求めている音楽や歌を、先頭に立ってパフォーマンスするアーティストなのだ」
同感である。
(タケ)