タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
史上最高の女性歌手は誰だと思いますか。
そんな質問を受けた時には迷わずこう答えることにしている。
もちろん、美空ひばりでしょう。
一人の歌い手としてだけでなく世相や時代を反映し、更にそれを乗り越えて語り継がれ歌い継がれ、時が経つほどに評価の声も高まってくる。そんな歌手は彼女以外には思い当たらない。
とは言え、彼女のイメージは世代によって異なっているというのも事実だろう。筆者が担当しているFM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」の5月の特集は美空ひばりである。でも、50代のディレクターの最初の反応は「え~」だった。なぜなら僕らの番組はタイトルにあるように「J-POP」という冠がついている。彼にとって美空ひばりは「演歌の女王」だったからだ。「ちょっと違うんじゃないか」というのが率直な感想だったに違いない。
ただ、番組の収録が始まってすぐに彼の反応は「こういう人だったんですね」に変わっていった。
歌の中に戦後日本の子供たちの「光と影」が
美空ひばりは1937年、横浜の魚屋の娘として生まれている。父親が音楽好きで家にある蓄音機からジャズが流れるという環境で物心がついた。父親が戦地に向かう壮行会で歌った娘の歌に才能を感じた母親が「この子のために」と自費を投じて「美空楽団」を結成、焼け跡や公民館で歌い始めた。1945年のことだ。翌、1946年、9歳で初舞台を踏んでいる。
年齢にまつわるその頃のエピソードはいくつもある。NHKののど自慢で「子供らしくない」と鐘を鳴らしてもらえなかった。評論家や作詞家に「教育上好ましくない」「気持ち悪いゲテモノ」と非難されたりもしている。
彼女のレコードデビューは1949年。12歳の時だ。A面曲での最初のシングルは「悲しき口笛」。歌の舞台は小雨煙る横浜。物憂げなフォービートのジャズバラードを巧みに歌いこなしている。彼女が出演もしていた同名の映画の冒頭のシーンは今の桜木町あたりだろうか、家を失った浮浪児たちが地面に鉄の釘を打って遊んでいるという光景だった。
そう、戦後である。
東京も横浜も焼け跡だった。家を焼かれ家族をなくした戦災孤児が街にあふれていた。1950年の彼女の代表曲「東京キッド」もそんな歌だ。でも、明るい。「右のポッケにゃ夢がある 左のポッケにゃチュウインガム」という歌詞が全てを物語っている。映画「悲しき口笛」「東京キッド」での彼女はジーンズのつなぎや山高帽に燕尾服という格好で歌っていた。
1951年の代表曲は「私は街の子」である。1955年、昭和30年代に入るとOLの昼休みを歌った「素敵なランデブー」もある。都会的でおしゃれ。彼女の歌に「シティポップス」を感じていた子供の中に筆者もいた。
その一方で1950年の「越後獅子の歌」は、孤児の旅芸人の歌だ。「リンゴ村から」に望郷の念を持たない日本人はいなかっただろう。戦後日本の子供たちの「光と影」が彼女の歌の中にあった。
美空ひばりは、戦後復興そのものとして始まっている。