失われた「部品」
私もコラムを書く時、外出先で気の利いた言い回しや比喩が思い浮かぶたび、ポケットの紙切れに書き留めることを習慣にしている。指が太いせいかスマホはどうも...。
手書きに利点があるとすれば、打ち間違いがないという点だろう。そもそも打たないのだから、発想と媒体の間に行き違いは起こらない。すなわち、思ったことと書いたことが一致する。だから、泥酔時などを除いて〈夏を過しっ死〉はない。
意味不明のスマホメモにあきれながら、川上さんは結語でこう嘆く。
「こうして...すごく重要だったかもしれない何かが、永遠に失われてゆくんだね」
私にも、ひらめいたものが何かの拍子に霧消した経験がある。しかもその頻度は増すばかりだ。すごく重要だったかもしれない何か...ではあるが、忘れたり解読不能だったりするような文字列は、もともと大したアイデアではなかったのだろう。
永遠に失われたとしても、たかが一部品。作品全体を動かす代用品は、プロならいくらでも思いつくはずである。
そういえば、本稿にも素晴らしいオチがあった気がするのだが、思い出せないまま、そして代わりを思いつかないまま、ここに締め切りを迎えたことを記しておく。
冨永 格