5月の大型連休を迎えて、気温も高くなり、一挙に旅行シーズンになってきました。
今日は、北ヨーロッパの人が憧れる南欧の国スペインを描いた人気曲、フランスのエマニュエル・シャブリエの作品「狂詩曲 スペイン」を取り上げましょう。
役所勤めをしながら作曲を続ける
日照時間の少ない、厳しい冬を過ごす北ヨーロッパの人たちにとって、春は特別な季節で、春を迎える喜びをモチーフにしたクラシック曲はたくさんあります。交通機関が未発達だった昔は、旅行もそう簡単ではなかったので、人々は、芸術の中に春の喜びを見いだしました。
近代になって、鉄道や船といった交通手段が整備されてくると、一般の人たちにとっても旅行は身近なものになりました。今まで聞いたことしかなかった土地にも、実際に行ってみることが可能になったわけです。
ところで、この近代という時代の定義は、政治体制の革命や、産業革命を経た以降のことですから、「作曲家」「音楽家」という職業の意味合いも、クラシック音楽の黎明期とは異なっていました。クラシック音楽が誕生したころの音楽家は、ほとんどが教会や宮廷に雇われ、家業としての音楽の職人集団、という側面がありました。宮廷が無くなり、人々が自由に旅行できるような時代になると、作曲家は「フリー」にならざるを得ませんでした。同時期に誕生した演奏家ならオーケストラ、オルガニストなら教会に雇ってもらうことができ、作曲家でも、オペラ作曲家のように歌劇場に雇われてオペラばかりを書いて生活することは可能でした。しかし、器楽作品を極めたい作曲家は、音楽学校の先生などを引き受けるケースはあるものの「演奏も教職もせず、作曲だけで食っていく」ことは、限りなく難しくなりつつあったのです。
そのため、ロマン派以降の作曲家は、演奏家として他人の作品を演奏していたり、もしくは全く別の職業を経験したりしています。
フランスの作曲家、シャブリエもそんな一人でした。彼は6歳から音楽を学び、音楽への志は合ったものの、おそらく音楽で食べていくのは大変、という周囲の意見もあったのかもしれませんが、法律学校に進み、卒業後、内務省に就職します。普仏戦争などが勃発する不穏な時代で、彼の勤務する内務省も、戦争の間パリを離れてトゥールやボルドーに避難したぐらいです。
しかし、そんな中でもシャブリエは、作曲を続けていました。彼は音楽をあきらめることができなかったのです。役所勤めをしながらツアーを行う演奏家は不可能ですから、彼は「日曜作曲家」ではありますが、曲をこつこつと作り続けていたのです。
フル・オーケストラの曲、記録的大ヒットに
39歳の時、当時ヨーロッパで絶大な影響力があった、ドイツのワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」の公演を聴いて、彼は音楽の道に専念することに決め、内務省を退職します。時間ができたので、ロンドンやブリュッセルに旅行して、さらにワーグナー作品の上演を観たり、知り合いのフランスのオーケストラの演奏会準備の手伝いなどを始めました。ドイツ作品に触れたことによって、シャブリエの中では、自分がフランス人である、という自覚も次第に大きくなっていったようです。
そして、運命の1882年、フランスにとっては隣国ですが、いつも豊富な太陽がある南の国、スペインに夫婦で旅行することになったのです。今風に言えば「脱サラ旅行」でしょうか、純粋に観光で、サン・セバスチャン、トレド、ブルゴス、セビリア、グラナダ、マラガ、カディス、コルドバ、バレンシア、サラゴサ、そしてバルセロナと、広く訪ねて回ったのです。この大旅行をシャブリエは心底楽しんだようで、現地から出したユーモアあふれる手紙が残っています。
フランスに帰国したシャブリエは、すでにスペイン国内で湧き上がってきた「素敵な楽想」を作品にすることに邁進します。当初はピアノ連弾で書こうとしましたが、つぎつぎと湧き上がるきらびやかなスペインの印象を音にするにはオーケストラが必要で、最終的にフル・オーケストラのための曲となります。こうして、彼の代表作、「狂詩曲スペイン」は誕生しました。そして、その時代、ラロの「スペイン交響曲」の成功以来、フランスに広がっていた「スペインへのあこがれ、スペイン関連作品の流行」の波に乗って、記録的大ヒットとなるのです。
狂詩曲スペインは、専業作曲家として生きていくことを覚悟したシャブリエを、名実ともに「一流作曲家」の仲間入りさせてくれることにもなりました。スペイン旅行は、シャブリエに、重要な人生のチャンスと成功を与えてくれましたが、それによって誕生したこの曲は、現代の我々にも、スペインへのあこがれを、味わわせてくれます。
後の作曲家にして指揮者――彼もいわば「シーズン限定の作曲家」でした――グスタフ・マーラーは、「『狂詩曲スペイン』によって、近代音楽の幕が開けた」、と大変高くこの曲を評価しています。
本田聖嗣