フル・オーケストラの曲、記録的大ヒットに
39歳の時、当時ヨーロッパで絶大な影響力があった、ドイツのワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」の公演を聴いて、彼は音楽の道に専念することに決め、内務省を退職します。時間ができたので、ロンドンやブリュッセルに旅行して、さらにワーグナー作品の上演を観たり、知り合いのフランスのオーケストラの演奏会準備の手伝いなどを始めました。ドイツ作品に触れたことによって、シャブリエの中では、自分がフランス人である、という自覚も次第に大きくなっていったようです。
そして、運命の1882年、フランスにとっては隣国ですが、いつも豊富な太陽がある南の国、スペインに夫婦で旅行することになったのです。今風に言えば「脱サラ旅行」でしょうか、純粋に観光で、サン・セバスチャン、トレド、ブルゴス、セビリア、グラナダ、マラガ、カディス、コルドバ、バレンシア、サラゴサ、そしてバルセロナと、広く訪ねて回ったのです。この大旅行をシャブリエは心底楽しんだようで、現地から出したユーモアあふれる手紙が残っています。
フランスに帰国したシャブリエは、すでにスペイン国内で湧き上がってきた「素敵な楽想」を作品にすることに邁進します。当初はピアノ連弾で書こうとしましたが、つぎつぎと湧き上がるきらびやかなスペインの印象を音にするにはオーケストラが必要で、最終的にフル・オーケストラのための曲となります。こうして、彼の代表作、「狂詩曲スペイン」は誕生しました。そして、その時代、ラロの「スペイン交響曲」の成功以来、フランスに広がっていた「スペインへのあこがれ、スペイン関連作品の流行」の波に乗って、記録的大ヒットとなるのです。
狂詩曲スペインは、専業作曲家として生きていくことを覚悟したシャブリエを、名実ともに「一流作曲家」の仲間入りさせてくれることにもなりました。スペイン旅行は、シャブリエに、重要な人生のチャンスと成功を与えてくれましたが、それによって誕生したこの曲は、現代の我々にも、スペインへのあこがれを、味わわせてくれます。
後の作曲家にして指揮者――彼もいわば「シーズン限定の作曲家」でした――グスタフ・マーラーは、「『狂詩曲スペイン』によって、近代音楽の幕が開けた」、と大変高くこの曲を評価しています。
本田聖嗣