週刊現代(4月14日号)の「それがどうした 男たちの流儀」で、伊集院静さんが早朝の電車内を活写している。タイトルは「ゴルフ場までのちいさな旅」だ。
作家はおそらく、都心の神保町から東京メトロ半蔵門線を利用し、相互に乗り入れる東急田園都市線で終点の中央林間(神奈川県大和市)に向かう途中である。乗り換えなしだから1時間ほどの旅程だろうか。
「先刻から右隣りに座った若い女性の肩が、私の肩に数十秒ごとにコツンと当たる」
電車モノの常で、何やらトラブルを予感させる書き出しである。しかし結論から言えば、活劇としてのドラマは起こらない。
やがて左隣の女性もスマホをやめて眠り出す。なにしろ午前6時過ぎである。向かい側に座る6人も、うち3人が眠っている。伊集院さんは、起きている中の1人に注目する。若者が、昨今では珍しく本を読んでいたからだ。
「スマホを覗く二人の目の表情と、本を読んでいる若者のそれはあきらかに違っている。スマホを覗く目は、流れ作業をする人の目に似て、どこか精気がない。本を読む目は活字をタテに追い、ところどころで目がかがやいたり、かすかに笑ったのではと思える表情をする」
いったい誰の本だろう。小さな文庫本で、筆者の距離からはタイトルが判別できない。
「まあ、あれだけ夢中なのだから、私の本ということはあり得ない」
右手のOKサイン
伊集院さんは続けて、車内の居眠り百態を描いていく。神保町からの客のほとんどはどこかで降りたが、先の若者はまだ乗っている。
「何の本を読んでいるのか知りたくなり、私は少し身体を乗り出し、メガネを外して背表紙を見た。六文字のタイトルで、最初の四文字がひらがなのように見えるが判明しない」
そのうち、この動きに気づいた若者が伊集院さんを見た。次の若者のひとことが、この随筆の山場である。
〈これ、あんたの本? だよね、アッ......〉
対する作家の反応がダンディだ。右手でOKマークを作り、小さくうなずいたというのである。悔しいが、モテ男はこういう仕草がスマートである。
若者は終点のひとつ前で慌てて立ち上がり、愛読書の生みの親を見たままホームに降りていった。中央林間の駅から迎えのバスでゴルフ場に着いた伊集院さん。早朝の移動に疲れ、テラスの椅子でしばらく休んだ。そして結語となる。
「嘘のような話だが、その本のタイトルは『いねむり先生』であった」
出版不況の中で
伊集院さんの「いねむり先生」(2011年、集英社刊)は、「麻雀放浪記」などで知られる小説家、色川武大=阿佐田哲也(1929~1989)との交流を描いた自伝的小説。題名は色川が抱えていた難病、ナルコレプシー(居眠り病)による。
当コラムで、電車内の描写を取り上げるのは早3回目となる。それだけ随筆のネタになりやすいということだろう。しかし今回はもめごとも起きなければ、修羅場もない。伊集院さんの軽い筆致で、観たままが書き連ねられるだけである。
若者の活字離れ、正確には紙媒体離れは、新聞・出版業界の構造不況を招いている。紙の本で世に出た伊集院さんが、文庫本を読みふける若者に目をとめたのは自然だ。私も、まれに車内で新聞を読む人を見つけると、それがどんな新聞でも心で礼を言う。
伊集院さんは、その文庫本について「最初の4字がひらがな」「うわ表紙をとったデザインはどこかで見た気が」とマサカを予感させ、大団円にいざなう。鮮やかなものだ。
感心したことがもう一つ。当代きっての人気作家が、ゴルフに行くのにポルシェでもハイヤーでもなく、鉄路を使うことがあるという事実である。
冨永 格