キャリアの始まりをなぜ1968年にしたのか
そして、1968年である。
彼女が自分のキャリアの始まりを「1968年」としたのはなぜなのか。「4・百万本のバラ」以降はその答えだろう。1968年という時代がどういう年だったのか、そして、彼女にとって何があったのか。それがなぜ「始まり」なのか。時代背景や歴史的経緯。一つの歌にどのくらいの出来事が刻まれているのかが浮き彫りになってゆく。
1968年、彼女は横浜から船で40日間のソ連旅行に出かけている。世界は新旧の価値観の間で揺れ動いていた。パリの5月革命、プラハの春と呼ばれたチェコの民主革命、ベトナム戦争が泥沼化していたアメリカでは平和運動の指導者だったキング牧師の暗殺とフラワームーブメント、そして彼女も座り込みに参加したという東大や日大の全共闘に象徴される日本の学園闘争。彼女はソ連旅行でその現場を経験する。戦争と平和、自由を求める人たちとそれを圧殺しようとする力。おびただしい血が流され、それでも歌い継がれてゆく歌。それを歌った人や作った人を見舞った悲劇は第二次世界大戦やロシア革命、フランス革命、抗日運動にまでさかのぼってゆく。「百万本のバラ」「悲しき天使」「暗い夜」「リリー・マルレーン」「暗い日曜日」「今日は帰れない~パルチザンの唄~」、そして「鳳仙花」、、、。どれもそんな物語を持っている歌ばかりだった。
彼女はそうした日々の中で夫となる藤本敏夫さんと出会っている。彼が初デイトの夜に星空の下で歌ってくれたのが「知床旅情」。1968年のことだった。
坂本龍一は彼女のことを「歌手にあるまじき研究熱心」と言ったのだそうだ。それは誉め言葉以外の何物でもないのだろうが、単にその歌を歌うことに留まらない幾重にも折り重なったストーリーは、彼女の探究心があってこそだろう。一見無関係に見えたそれぞれの歌が「加藤登紀子の地図と年表」を描いてゆく。
アルバム「TOKIKO'S HISTORY」にも全曲についての彼女のコメントがついている。でも、「運命の歌のジグソーパズル」が教えてくれることはその比ではない。
彼女は本の最後をアメリカの反戦歌だった「花はどこへ行った」の作者、ピート・シーガーのこんな言葉で締めくくっている。
「私は、誰かが掘った井戸から水を飲んでいる。誰かの点火した火で体を暖めている」
(タケ)