今日は、現代の日本でも人気の高い、グスタフ・マーラーの交響曲第1番「巨人」を取り上げます。
名曲が続々誕生していた時代のウィーンに学ぶ
1860年、現在はチェコとなっているボヘミアのモラヴィアとの州境の近く、カリシュトという小さい村にグスタフ・マーラーは、12人兄弟姉妹の上から2番目として誕生しました。父親はエネルギッシュな起業家で、現代だったらDVと言われてしまうような、家庭では粗暴な性格でしたが、早くから音楽の才能を現した息子のことを見抜き、まずはピアノを買い与え、音楽教師を雇いました。10歳になると、彼をチェコの中心都市プラハに送り、その「プチ留学」はあまり成功とはいえず、12歳で、当時一家が暮らすイグラウに戻ってきてしまいましたが、地元で演奏会などを開き、新聞にも掲載されたので、物静かな少年の非凡なピアノの腕前に感心したボヘミアの実業家が、帝都ウィーンで学べるよう取り計らってくれました。
少年期のマーラーは、音楽以外の趣味は、自然に親しむことと、読書にふけること・・という非常に内向的な少年でしたが、よくあるように「両親や周囲の反対を押し切って」音楽家になったのではなく、少年期から、理解がある周囲のサポートがあるという比較的恵まれた状況で、音楽の道に専念することができたのです。
ボヘミアの田舎出身の青年、マーラーにとっては音楽の都ウィーンはさぞかしきらびやかに映ったに違いありません。この時代は、まさに音楽の爛熟期で、モーツァルトやベートーヴェンやシューベルトの足跡が残るウィーンの聴衆は、ドイツ出身のワーグナーに熱狂しており、他方、同じくドイツからウィーンに拠点を移していたブラームスも作品を次々と生み出して、ウィーンの人たちを楽しませていました。
そのウィーンで、ベートーヴェンが「第九」に合唱を付けたところから始まった「偉大な交響曲」の系譜は、ベルリオーズ、ワーグナーの手によって、より物語や声楽をクローズアップした劇音楽・オペラ的なものに発展していっていましたが、他方、ベートーヴェンの正当な後継者と目されたブラームスは、長い年月をかけて、器楽だけの「交響曲」を作曲しつつありました。その流れを受けたウィーン風の新しい「交響曲」の形を作った作曲家として、ブルックナーもすでに活躍しつつありました。
一方、ハンガリー生まれで、各地で活躍したフランツ・リストが創造したオーケストラの曲ではあるが、交響曲ではなく、より文学的表題を持つ「交響詩」というジャンルも、この時代、リヒャルト・シュトラウスによって継承されていました。つまり、クラシック音楽の花形、大編成のオーケストラで演奏される「オペラ」「交響曲」「交響詩」の名曲が、次々と生まれている時代であり、場所だったのです。
作曲家ではなく歌劇場の指揮者を目指す
ウィーン学友協会の付属音楽院で、和声・対位法・作曲・ピアノと、作曲家になるために必要な充実した教育を受けたマーラーは、ここでも才能を現し、周囲から一目置かれていました。ピアノの腕前も非凡、そして学内の室内楽の作曲コンクールでも第1位を受賞したのです。
しかし、音楽院を卒業してマーラーが目指したのは、作曲家やピアニストではありませんでした。作品番号1をつけたカンタータ「嘆きの歌」がウィーンで行われた作曲コンクールで、審査員のブラームスなどからあまり良い評価を得られなかった、ということも影響しているかもしれませんが、彼が、ピアノ教師のアルバイト生活から脱却するために目指したのは、「歌劇場の指揮者」だったのです。
後世の我々には「作曲家」としてとらえられるマーラーですが、同時代人にとっては、彼は亡くなるまで、「完璧主義でたびたびオペラハウス側と衝突する歌劇場指揮者」だったのです。
20歳の時、オーストリアの温泉保養地バート・ハルの「保養地管弦楽団指揮者」からスタートした彼のキャリアは、その後スロベニアのライバッハ(リュブリヤナ)、モラヴィアのオリュミュッツ、ドイツのカッセル、チェコのプラハ、再びドイツのライプツィヒ、ハンガリーのブタペスト、ドイツのハンブルク、そして、音楽の都、帝都ウィーンへ、さらにその後はアメリカへ場所を変えながら、続いていきます。彼は常に、歌劇場の常任指揮者として、確実にキャリアを積み重ねていったのです。
作品中もっとも演奏しやすく、人気が高い
その一方、作曲もあきらめてはいませんでした。指揮者という忙しい仕事のため、時間はなかなか取れず――時には作曲に没頭しすぎて歌劇場から怒られたこともあります――その後は「休暇の時に、別荘地にこもって集中的に作曲を仕上げる」というパターンが定着してくるのですが、とにかく作曲は、いわば時間が空けば行う「余技」でした。しかし、自作を、特に交響曲などの大規模な編成の曲を、演奏家を雇って演奏するためにはお金がかかり、そのためにも本業の「指揮者」でなお一層活躍しなければならなかったので、ますます時間がない・・・というジレンマにも悩まされました。
マーラーの第1番交響曲は、当初交響詩として企画され、ジャン・パウルの小説の題名から「巨人」というタイトルを拝借していました。読書が何よりも好きで、文学や哲学に造詣が深かったマーラーは、言葉が必要に思えたのかもしれません。しかし、最終的には現在「花の章」と呼ばれている旧第2楽章を削除して、全5楽章の「交響曲」として完成させることになるのです。最初は各楽章に「春」とか「花」とか「難破」などの表題がついていたのですが、3回目の公演からそれものぞいてしまい、純粋な、いわば伝統的な器楽曲となったのです。自作の歌曲「さすらう若人の歌」などからもメロディを拝借しているので、言葉のある歌曲的要素もありますが(この後、偶数番号を持つマーラーの交響曲は、実際に声楽を取り入れます)、結局「言葉で多くは語らせない」ことにしたマーラーの方針が成功して、この曲はマーラーの作品の中ではもっとも演奏しやすく、したがって、人気の高い曲となっています。
また、この時期のマーラーは、指揮者として、まだ歌劇場のトップに座ることができず、常に上の立場にある指揮者などを疎ましく思っていたこともありました。自らの音楽的才能に自信を持っている・・どころか、その才能のほとばしりで、指揮という仕事をこなしているマーラーにとって、作曲する、という行為は、それらの憤懣をぶつける場でもありました。
幼少期から、「死」について考えることが多く、どこか暗い影が付きまとうマーラーの作品ですが、交響曲第1番「巨人」は、あまりネガティブさを感じさせず、まだ意気軒高だったころの才気のほとばしりも感じられます。それも、この曲が「人気曲」となっている原因の一つかもしれません。マーラーの交響曲入門としても、第2番「復活」とならんで、第1番はおすすめです。
本田聖嗣