作曲家ではなく歌劇場の指揮者を目指す
ウィーン学友協会の付属音楽院で、和声・対位法・作曲・ピアノと、作曲家になるために必要な充実した教育を受けたマーラーは、ここでも才能を現し、周囲から一目置かれていました。ピアノの腕前も非凡、そして学内の室内楽の作曲コンクールでも第1位を受賞したのです。
しかし、音楽院を卒業してマーラーが目指したのは、作曲家やピアニストではありませんでした。作品番号1をつけたカンタータ「嘆きの歌」がウィーンで行われた作曲コンクールで、審査員のブラームスなどからあまり良い評価を得られなかった、ということも影響しているかもしれませんが、彼が、ピアノ教師のアルバイト生活から脱却するために目指したのは、「歌劇場の指揮者」だったのです。
後世の我々には「作曲家」としてとらえられるマーラーですが、同時代人にとっては、彼は亡くなるまで、「完璧主義でたびたびオペラハウス側と衝突する歌劇場指揮者」だったのです。
20歳の時、オーストリアの温泉保養地バート・ハルの「保養地管弦楽団指揮者」からスタートした彼のキャリアは、その後スロベニアのライバッハ(リュブリヤナ)、モラヴィアのオリュミュッツ、ドイツのカッセル、チェコのプラハ、再びドイツのライプツィヒ、ハンガリーのブタペスト、ドイツのハンブルク、そして、音楽の都、帝都ウィーンへ、さらにその後はアメリカへ場所を変えながら、続いていきます。彼は常に、歌劇場の常任指揮者として、確実にキャリアを積み重ねていったのです。