練習曲というジャンルが定着していなかった時代
その彼が残した、ピアノ練習曲集、「グラドゥス・アド・パルナッスム」は、当時はまだピアノのための練習曲が少なかったこともあり、(なにしろ、「チェルニー30番練習曲」がまだ登場していなかったのですから!)、人々に大変重宝されました。
現在では、ピアノを始めた人が比較的初期に練習する「クレメンティのソナチネ」のほうがはるかに有名なのですが、ピアノ練習曲勃興期にあって、重要な役割を果たしたといえるのです。
ちなみに、この一風変わった題名ですが、ギリシャのパルナッソス山に登る、という意味で、ギリシャ中部に存在するこの山は、神話の世界でミューズが住むといわれ、音楽・文学などの芸術を極めることを、パルナッソス山に登る、と表現したことにちなんでいます。フランスのパリ市の左岸、南に位置する小高い丘が、「モンパルナス」と名付けられていますが、フランス語でモンは山、パルナスはパルナッソスの仏語読みで、この山から名付けられたものです。モンパルナス界隈には、20世紀の初め、哲学者や芸術家がたむろしたカフェがたくさん存在しています。
練習曲の揺籃期に作られたクレメンティの曲集は、営業政策もあり、グラドゥス・アド・パルナッスムという大げさな題名がつけられましたが、この時代の練習曲集は、みな似たような題名を持っていました。まだ、練習曲というジャンルが定着していたとは言い難かったので、言葉による説明も必要でしたし、ある程度大げさな題名も、消費者に手に取ってもらうためには必要だったといえるでしょう。ピアノという楽器が当たり前になり、その演奏を学ぶために「練習曲」が必要という常識ができてくると、過剰なタイトルは影を潜めます。