50歳で決断、新天地米国へ
プラハで、最初は弦楽器奏者として、それから音楽教師として、プロ活動を始めたドヴォルザークは、コンクールに応募するために大規模な作品を作曲し始めます。次第に頭角を現したドヴォルザークは帝都ウィーンで活躍していたブラームスなどにも認められ、人気作品を生み出していきます。それらの作品は、出版社の意向も入っていたとはいえ、彼自身の故郷、ボヘミアの「スラヴ的」旋律にあふれていて、それが当時の風潮に受け入れられて大ヒットとなるのです。すなわち、ウィーンなどの音楽中心地の聴衆にとっては、「周辺国」のエキゾチックな文化が物珍しく響き、チェコなどまだ独立前の「周辺国」住民にとっては、自分たちのアイデンティティーを確認するよりどころとなったのでした。
ドヴォルザークは、チェコを代表する作曲家となり、円熟期を迎えます。有名になると、国外に招かれることも多くなり、特に英国には何度も足を運んで演奏などを行ったり、現地で出版契約を結んだりしましたが、彼の気持ちは常にボヘミアとともにありました。そして、ボヘミアは、言語的にもスラヴに属する、ということで、彼の作品にはつねに「スラヴ的なもの」が感じられ、人々も、それを期待したのです。
いくら活躍しても、チェコを動こうとしなかったドヴォルザークですが、50歳の時、新興国米国から音楽院に招聘される話が舞い込みます。一旦は断ったものの、子沢山のドヴォルザークは、提示された破格の給料にも、そして、新興国米国の鉄道にも魅力を感じ、ついには米国行きの決断をします。