故郷ボヘミアを思い続けたドヴォルザーク スラヴ的哀愁に満ちたピアノ三重奏曲「ドゥムキー」

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50歳で決断、新天地米国へ

   プラハで、最初は弦楽器奏者として、それから音楽教師として、プロ活動を始めたドヴォルザークは、コンクールに応募するために大規模な作品を作曲し始めます。次第に頭角を現したドヴォルザークは帝都ウィーンで活躍していたブラームスなどにも認められ、人気作品を生み出していきます。それらの作品は、出版社の意向も入っていたとはいえ、彼自身の故郷、ボヘミアの「スラヴ的」旋律にあふれていて、それが当時の風潮に受け入れられて大ヒットとなるのです。すなわち、ウィーンなどの音楽中心地の聴衆にとっては、「周辺国」のエキゾチックな文化が物珍しく響き、チェコなどまだ独立前の「周辺国」住民にとっては、自分たちのアイデンティティーを確認するよりどころとなったのでした。

   ドヴォルザークは、チェコを代表する作曲家となり、円熟期を迎えます。有名になると、国外に招かれることも多くなり、特に英国には何度も足を運んで演奏などを行ったり、現地で出版契約を結んだりしましたが、彼の気持ちは常にボヘミアとともにありました。そして、ボヘミアは、言語的にもスラヴに属する、ということで、彼の作品にはつねに「スラヴ的なもの」が感じられ、人々も、それを期待したのです。

   いくら活躍しても、チェコを動こうとしなかったドヴォルザークですが、50歳の時、新興国米国から音楽院に招聘される話が舞い込みます。一旦は断ったものの、子沢山のドヴォルザークは、提示された破格の給料にも、そして、新興国米国の鉄道にも魅力を感じ、ついには米国行きの決断をします。

本田聖嗣プロフィール

   私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でピルミエ・ プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソロ・室内楽の両面で活動を開始する。オクタヴィアレコードより発売した2枚目CDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。演奏活動以外でも、ドラマ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを 務めるほか、テレビにも多数出演している。日本演奏連盟会員。
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