■『判断力批判』(イマヌエル・カント著、篠田英雄訳、岩波文庫)
いまさらながらカントを読んでみよう
つぎのくだりを読んで読者はどう思うだろう。
「人間が...〔道徳的〕法則のもとにおいて、自分の究極目的を設定し得るための主観的条件は、幸福である。それだから世界における最高の自然的害、即ち我々〔人間〕に関する限り究極目的として促進されるところの善は、取りも直さず幸福である。そしてかかる意味での最高の善〔幸福〕は、人間が道徳的法則と合致するための客観的条件―換言すれば、幸福に値するという条件のもとに摂せられるのである。しかし道徳的法則によって我々に課せられた究極目的のかかる二通りの要求が、単なる自然原因によって結合せられしかもこの究極目的の理念に適合すると考えることは、我々の有するすべての認識能力にかんがみてまったく不可能である。...それだから道徳的法則に適うような究極目的を設定するためには、是非とも道徳的世界原因(世界創造者)を想定せざるをえないのである。...即ちそれは神が存在するとういうことである」(カント『判断力批判』(1790年)、篠田英雄訳)(編注:原文では「取りも直さず幸福」の「幸福」と「結合せられ」の箇所に傍点あり)
カントによる、神の道徳論的証明といわれるものである。1)個人の目的が幸福であること、2)人は道徳法則に則って行為することで、はじめて「幸福に値する」ものとなること、この二つの条件が自然に結合することは不可能であるから、きっと神が存在するに違いない、というわけである。
評者にはカントが無謀な企てにからだを張っているようにみえる。この二つの条件が自然に結合することは、いまとなってはよく知られている。「進化」を考えさえすれば、利己的な個人が同時に利他性を持つことは説明できる。淘汰の過程で利他性は有利に働く。なにか超越的なものを想定するまでもなく、自然が謎を説明するのである。