「月の光」などの作品で知られるフランスを代表する作曲家、クロード・ドビュッシーは、今年が没後100年のメモリアルイヤーにあたっており、世界中で彼の作品の演奏や研究が発表されています。今回は、そんな彼の転機となった時期の作品、「弦楽四重奏曲」を取り上げましょう。
ワーグナーを気に入っていたが...
フランス、パリ郊外に1862年に生まれたドビュッシーは、10歳で名門パリ音楽院に入学し、そこで12年間学びました。音楽院の作曲家を目指す学生たちにとって登竜門とされるローマ大賞を受賞し、音楽院生活を終え、副賞としてローマへ2年留学をしましたが、イタリアにはあまりなじめなかったようです。
名誉あるローマ大賞を得たものの、作曲家としてはまだ無名で、裕福ではなかったドビュッシーは、最優秀ではなかったもののピアノ科も卒業していたので、ピアノ演奏などのアルバイトをして食いつないでいました。また、当時のパリは絵画・文学など他分野の芸術が万国博覧会などの刺激もあり一挙に花開いた時代で、ドビュッシーはそういった、異なる分野の芸術家たちとも交流を持ち、刺激を受けました。いわゆる「サロン文化」の真っただ中にいたわけです。
音楽院時代からドビュッシーは作品を書き始めていたものの、若いころのドビュッシーは、まだまだ自分の個性を確立できずにいました。19世紀ヨーロッパの音楽家が軒並み影響を受けたドイツのオペラ作曲家、リヒャルト・ワーグナーのことをドビュッシーもかなり気に入っていて、その作曲法から学ぶことも多かったようです。
ところが、1888年、89年と、ワーグナーの聖地であるバイロイト(彼の作品だけを上演する歌劇場があります。)を訪れたドビュッシーは、次第に違和感を覚えるようになります。音楽が饒舌すぎて、押しつけがましい...そう感じるようになったのです。ちょうどそれは「ドイツ」と「フランス」の美的センスの違いにも通じることでしたが、ドビュッシーは、これを機にアンチ・ワーグナーとなり、自分自身の中に美の源泉をもとめ、かつ自分の語法で語ることを模索し始めるのです。