陰惨なる人類史と「健全」なる歴史観
生じてしまった過ちの原因分析が主題の本書では、被害の描写は簡素である。
1984年にインド・ボパールで起きた化学工場の爆発事故は、「猛毒ガスがもくもくと立ち昇り、またたく間に半径20平方キロにまで広がって、3800人以上が数分以内に息絶えた」で被害の説明を終えてしまう。
だが、3800人一人一人の人生に具体的に思いを馳せると、慄然という言葉では表せない、強い衝動が湧きおこる。被害は2万人にまで及んだという。
この事故を起こした企業が、弁護士を大量に雇い、字も読めぬ被害者や遺族宅を回らせ、不当な示談書にサインさせた事実を評者は苦々しく思い出すが、本書はこれを指摘しない。さすがに簡素化し過ぎだろう。
このように、多くの事案の実態は、本書原題の"mistake"に留まらぬ、未必の故意や悪意に基づく大量虐殺とさえ言いたくなる悪質なものだ。事例を少し選び直せば、『同胞殺しの原罪史』とでも改題しうるのではなかろうか。
そのような視点からすれば(そうでなくとも)、ヒロシマ・ナガサキは最大の「過ち」である。だが本書には載っていない。オーストラリアの核実験を採り上げていながら、である。ここに評者は米国社会の限界を見る。
コラムニストの故山本夏彦氏は、自国を擁護する歴史教育は「健全」であるが故に、「健全」であることを嫌って見せた。本書が見せる西欧文明中心主義は、相も変わらず米国が「健全」であり続けることを端なくも証明する。
著者は言う。「失敗の多くは、優秀で善意に満ちた人々が、肝心なときに大事な判断を誤ったために引き起こされている」と。原爆投下という、人類史に永久に残る大罪を本書が選び得なかったこともまた、一つの「失敗」であろう。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)