「この人こそ、ベートーヴェンの後継者だ!」
ブラームスが最初にウィーンを訪れた時、知人でピアニストのユリウス・エプシュタインの家で、彼の「ピアノ四重奏曲 第1番」をヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヘルベスメルガーが率いる四重奏団のメンバーと、彼自身のピアノで、初見で演奏しました。ヘルベスメルガーはブラームスの作品の出来に感心し、「この人こそ、ベートーヴェンの後継者だ!」と大声で言ったのです。それは、ブラームスにとって、身に余る光栄でした。交響曲や、室内楽の分野で、彼は特にベートーヴェンをリスペクトしていたからです。
偶然ですが、ヘルベスメルガーが大声をあげたエプシュタインの家は、古くはモーツァルトが3年間暮らして「フィガロの結婚」やブラームスのレパートリーであった「ピアノ協奏曲 第20番」などを作曲した家であり、そこにはハイドンがモーツアルトを訪れたこともあり、若きベートーヴェンがモーツァルトの前でピアノを演奏したのもこの家であった、と言われています。音楽の都、ウィーンならではの数々の出会いが、ブラームスを惹きつけたのは間違いありません。
それからほどなくして、「ピアノ四重奏 第1番」は正式に演奏会でヘルベスメルガー四重奏団によってとりあげられ、そのすぐ二週間後に、ブラームス自身の演奏会で、彼はピアニストとして、バッハ、シューマン、自分自身のピアノ独奏作品と合わせて、今度は第1番と同時期に作っていた「ピアノ四重奏曲 第2番」を演奏し、この演奏会は拍手喝采を受けて大成功となります。
この時は、まだ自分がウィーン市民になるとは思っていなかったブラームスですが、彼が望んでいた故郷ハンブルクのオーケストラの指揮者のポストが他の歌手に決まる、という衝撃的なニュースが舞い込んできたため、ブラームスはウィーンに居を移すことを考え始めます。
音楽の都の魅力的な音楽環境に魅せられ、故郷での冷たい仕打ちも重なって、彼は一旦ハンブルクには戻ったものの、ウィーンのジングアカデミー合唱団の指揮者を引き受ける、というかたちで、再び帝都に舞い戻り、そこで、腰を落ち着けて長く活躍することになるのです。図らずも敬愛するベートーヴェンと同じように、決して甘口でばかりではない、辛口の聴衆もいるウィーンで、彼は、主に作曲家として勝負することにしたのです。
本田聖嗣