週刊現代(2月17日号)の「気付くのが遅すぎて」で、エッセイストの酒井順子さんが雪かきを通して「世間」を感じている。世間の何かといえば、雪かきのはかどり具合で民度を判断する、そんな視線のことである。
1月22日(月)の大雪は、東京に暮らす者にとって4年ぶりの試練だった。都心の積雪23センチは、2014年2月の27センチ以来の記録。居座る寒波で残雪は凍結した。週の初めでもあり、しばらく通勤通学に難儀した人は多い。
みるみる降り積もる雪を前に、酒井さんは「不安でいっぱいに」なっていた。ほかでもない、4年前の雪かきで腰を痛め、1年近く腰痛に悩まされた経験のためだ。
翌朝、近所から響いてくる雪かきの音、酒井さんもスコップを握らざるを得ない状況である。ただ今年は、ここで頑張らなかった。
「雪は数日で消えるけれど、腰は一生もの。『腰ファースト』と決め、雪かきは最小限にとどめました」。それでも、スコップを握り続けた手はカクカクになったという。
「残雪の量=民度」説
そんなおり、知人がもらした一言こそ、このエッセイのキモである。
〈雪の残り具合を見ると、その家の民度がわかるよね。自分ちの前の道を雪かきしてない家を見ると、何考えてんのかと思う〉
そう聞いた酒井さんは帰宅後、自宅の前を改めて観察する。
「民度の低い箇所がまだまだ残っています。ご近所さんに後ろ指を指されているかと思うと...」。酒井さんは再びスコップを手に取り、鼻水をたらしながら、すっかり凍った雪を打ち砕くのだった。
民度発言の男性は、自分は出勤前に雪かきをしたと誇らしげ。専業主婦の奥さんは隣の老夫婦のところまで除雪したという。酒井さんは「雪かきできない家には、それなりの事情があるんじゃないの?」と考える。そして、スキャンダルに見舞われた有名人の決まり文句「世間をお騒がせして申し訳ありません」に思いをはせる。
「日本では、世間の視線が強力であるからこそ、秩序が保たれているのかもしれません。しかし世間が強すぎるからこそ、息苦しくもある...」
理事長のボランティア
酒井さんの玉稿をお借りした以上、私自身の、軟弱な雪かき体験についても書かなければ礼を欠く。幸か不幸か小さなマンションに住んでいて、そもそも「家の前」がない。玄関先の雪は、通いの管理人さんが除けてくれた。
ただ、私は管理組合の理事長(輪番)でもあり、あの日はマンション周囲の点検がてらご近所を回った。朝からびしっと雪かきを済ませているのは、なんといってもコンビニだ。お客の安全確保に加え、たいてい近くに競合店があることも大きいだろう。そして「ファミマらしくない」「セブンともあろうものが」といった世間の目である。
大雪2日後の昼下がりだったか、わがマンション前のツツジが積雪の重さで倒れかけているのに気がついた。スルーするわけにはいかない理事長である。
管理人にスコップを借りに行く。彼は恐縮しながら、プラスチック製と金属製のどちらがいいか聞いてきた。男ならゴツイほうで勝負だ。ところが、これが思いのほか重い。
悪いことに、植え込みに積もった雪は地上1メートルほどの位置にある。持ち慣れない道具を時にバットのようにスイングし、締まった雪を半ばふらつきながら叩き落としていく。一刻も早く作業を終えたくて、足元の凍結路面を気にする余裕などなかった。
なにしろ「白昼の住宅街でスコップを振り回す不審者」である。後ろ指どころか、世間様に通報されるかもしれないのだ。
冨永 格