普段は、「ある曲」にフォーカスすることの多いこのコラムですが、今日は、「人」にフォーカスします。その人物は作曲家ではありません。そして、歌手や器楽奏者・・つまり演奏家でもありません。音は1音も作ったり出したりしませんが、音楽にとっては、ものすごく重要な働きをした人です。現代で言えば、「プロデューサー」ということになるでしょうか。現地イタリアでは、「インプレサリオ」という名の職業人です。
彼の名前はドメニコ・バルバヤ。1777年、イタリア・オペラの中心地というべきミラノに生まれた人物です。
カフェ店員、軍隊相手の弾薬手配、そしてカジノ経営
オペラの名プロデューサーとして名をとどろかせたバルバヤですが、彼の最初の職業は、なんとカフェの店員でした。アルバイトではなく、本職です。職務に情熱を傾けた彼は、そのミラノのカフェで、新しい飲み物、「バルバヤーダ」を発明します。どんなものだったかというと、コーヒーに泡立てたミルクを載せたもの・・・そう、現在では、これがまぎれもなく「カプチーノ」と呼ばれる飲み物の源流だ、と言われています。「バルバヤーダ」の発明だけで満足することなく、そのアレンジ系ともいえる「ビチェリン」――これはエスプレッソにホットチョコレート、そして泡立てたミルクを混ぜることなく層状に透明な小さなグラスに注ぐというものです――なども立て続けに考案し、ミラノ発の新しい飲み物として、爆発的ヒットを飛ばします。
これで、おそらくバルバヤはある程度のお金を手にしたはずですが、次に彼が目指した仕事はオペラ・・・ではなく、軍隊相手の弾薬手配の仕事でした。時あたかもナポレオン戦争の真っ最中、弾薬は敵にも味方にも、飛ぶように売れたのです。これでさらに一財産築き、イタリアも席巻したフランス軍と仲良くなったバルバヤは、次に、フランス軍の許可が出た賭博業を管理するという仕事も始めます。現代風に言えば「カジノ経営」といったところでしょうか。
そして、カジノがどこで行われていたかというと、なんと、オペラ歌劇場だったのです。現在のイタリア・オペラの殿堂となっているミラノ・スカラ座のカードディーラーの権利を、バルバヤは手に入れただけでなく、フランス軍の南下とともに、南イタリアのナポリにもいち早く乗り込み、「歌劇場カジノ」を取り仕切ります。
実は「超ブラックプロデューサー」?
おそらく、コーヒーの発明よりも、弾薬売買よりも、カジノ経営で稼いだバルバヤは、ここで、オペラのプロデューサーとして動き始めるのです。初めは、おそらく、カジノ併設の歌劇場にもっと人を呼ぼう!という動機からだったかもしれませんが、何事にもエネルギッシュなバルバヤは、オペラ・プロデューサーとなると、ヒットメーカー、つまり才能ある作曲家を見つけ出し、作品を書かせ、それを大ヒットにつなげるという、敏腕プロデューサーとしての力を発揮し始めるのです。ミラノ、ナポリの劇場のプロデューサーだけでなく、遠くウィーンの2つの歌劇場のプロデューサーとしても活躍しました。ナポリでの彼の住居は「バルバヤ宮殿」と呼ばれていました。
彼に見出された作曲家は、ガエターノ・ドニゼッティ、ヴェインツェンチオ・ベッリーニ、そしてドイツ人のカルル・マリア・フォン・ウェーバー、そして、当時最大のヒットメーカー、ジョアッキーノ・ロッシーニなどです。彼らと契約を結び、次々と新作オペラを世に出し、ヒットさせました。彼がプロデュースを手掛けた作曲家とその作品は、現代でも頻繁に演奏されるオペラの名レパートリーとなっています。
しかし・・・新作が待ち遠しい聴衆の声にこたえた辣腕プロデューサー、バルバヤの契約内容は、作曲家にとっては、過酷なものだったようです。上記の作曲家の中で、ベッリーニとロッシーニはフランスに「逃亡」していますし、ロッシーニはそこで「引退」しているわけですから、さしずめ、黒いコーヒーをアレンジしたドリンク、カプチーノを発明したバルバヤは、現代で言えば「超ブラックプロデューサー」・・・だったのかもしれません!
本田聖嗣