先週は、ドリーブが作曲したバレエ「コッペリア」がフランス・バレエ最後の輝きとなったことを書きましたが、それには大きく普仏戦争が関係していました。皇帝ナポレオン三世が捕虜となり、首都パリが包囲されるまでになる「圧倒的な負け」を喫したフランスは、第2帝政が終わり、パリ=コミューンを挟んで第3共和政が始まるなど、その後さまざまな変化が現れますが、音楽の分野でも、「プロイセン=ドイツ憎し」の心情が広がります。
聴衆やメディアから激しく攻撃される
パリ包囲を実際に国民軍の歩兵連隊の一兵卒として経験していた作曲家のサン=サーンスは、戦争後、「アルス=ガリカ」すなわち「フランスの芸術の興隆」を旗印にして、弟子だったフォーレなどと一緒に「フランス国民音楽協会」を立ち上げます。音楽的には、イタリアのスタイルが支配的だった当時のフランスに、独自の美意識と形式を生み出そうという運動でした。そして同時に、サン=サーンスは、音楽に忠実に、ドイツの交響曲や器楽ソナタなども、公平に、正当に評価していましたから、これらの運動にも関わらず、保守的かつ熱狂的な愛国心に燃えるパリの聴衆やマスメディアから、激しい攻撃にさらされます。自身の健康問題もあって、非難渦巻くパリから、北アフリカのアルジェリアに転地療養を兼ね避難したサン=サーンスは、以後、たびたび長期の旅に出る「さすらいの音楽家」となります。
パリには時々帰るのみ、旅の空の下で作曲をつづけ、パリに楽譜だけを送って初演が行われ、その評判も外国の新聞で知る...というような生活が続きます。しかもその評判、というのも大抵は芳しからず、サン=サーンスの足はさらにパリから遠ざかります。普仏戦争・政治の転換、といった時代の大きな流れだけでなく、彼自身にも子供を失ったことによる結婚生活の破綻や、学士院のメンバーになるための選挙で、彼に対する反感から、シャルル・グノーに負けるという結果が出たことなど...実に厳しい状況が続いたこともさらに追い打ちをかけます。旅の道中でも作曲と演奏を続けたサン=サーンスですが、健康のために、各地をひたすら移動し転地療養を続けねばならず、この時期にオーストリアのある村で、動物の謝肉祭などが作られます。
消息について飛び交う噂、実は...
そんな彼が、パリと決別する決定的なときがやってきます。幼いころ父を亡くし、大叔母とともに、音楽の天才児だったサン=サーンスを手塩にかけて育ててくれた母が1888年に亡くなるのです。同時期にアルジェリアで完成していたオペラがパリで再びの上演拒否にあったこともあり、ついにサン=サーンスは、パリの家を売り払い、自筆譜・蔵書・絵画のコレクション、そして家財道具などは父の故郷であるノルマンディーのディエップ市に寄付し(現在も、同地でサン=サーンス記念館として公開されています)、帰る場所を持たない、本格的な「旅人」となるのです。
これ以降、サン=サーンスは「シャルル・サノワ」という偽名を使い、好奇心だけは相変わらずのフランスのマスコミや人々のうわさから逃れるように、次々と居留地を変えます。
まずはフランスを離れてスペインに向かいます。アンダルシア地方の古都グラナダと港町マラガを経て、大西洋岸のカディスに向かいます。
ここで、2台ピアノのための「スケルツォ」を完成し、パリの出版社に表紙の絵とともに送付します。スペインのフランメンコ・カスタネットを思わせる軽快な旋律がそこはかとなく現れる軽快なこの曲は、ようやく「パリ」という、良くも悪くも彼にとって重荷だった故郷から解放された心情が反映されているようです。演奏時間は10分に満たない小品ですが、2台のピアノという編成を十分に活かした、華やかな曲です。
すぐにパリで初演された「スケルツォ」は、相変わらず、賛否両論にさらされます。「サン=サーンスはもうだめだ、この作品を聴いてみよ!」「サン=サーンスは相変わらず素晴らしい!この作品がそれを証明している!」......そんな中、人々は、「自分は遠く離れたところで別の環境で休息したい」という友人あての短い手紙以降、行方が分からなくなったサノワ氏ことサン=サーンスの消息を噂したのでした。船の事故で溺死したらしい、病院にいるらしい、いや実はパリの近郊に潜んでいるらしい...さまざまな噂が飛び交いましたが、彼は、カナリア諸島のラス・パルマスに家を借りて、読書をしたり、執筆をしたりと、文学三昧の日々を過ごしていたのでした。
本田聖嗣