消息について飛び交う噂、実は...
そんな彼が、パリと決別する決定的なときがやってきます。幼いころ父を亡くし、大叔母とともに、音楽の天才児だったサン=サーンスを手塩にかけて育ててくれた母が1888年に亡くなるのです。同時期にアルジェリアで完成していたオペラがパリで再びの上演拒否にあったこともあり、ついにサン=サーンスは、パリの家を売り払い、自筆譜・蔵書・絵画のコレクション、そして家財道具などは父の故郷であるノルマンディーのディエップ市に寄付し(現在も、同地でサン=サーンス記念館として公開されています)、帰る場所を持たない、本格的な「旅人」となるのです。
これ以降、サン=サーンスは「シャルル・サノワ」という偽名を使い、好奇心だけは相変わらずのフランスのマスコミや人々のうわさから逃れるように、次々と居留地を変えます。
まずはフランスを離れてスペインに向かいます。アンダルシア地方の古都グラナダと港町マラガを経て、大西洋岸のカディスに向かいます。
ここで、2台ピアノのための「スケルツォ」を完成し、パリの出版社に表紙の絵とともに送付します。スペインのフランメンコ・カスタネットを思わせる軽快な旋律がそこはかとなく現れる軽快なこの曲は、ようやく「パリ」という、良くも悪くも彼にとって重荷だった故郷から解放された心情が反映されているようです。演奏時間は10分に満たない小品ですが、2台のピアノという編成を十分に活かした、華やかな曲です。
すぐにパリで初演された「スケルツォ」は、相変わらず、賛否両論にさらされます。「サン=サーンスはもうだめだ、この作品を聴いてみよ!」「サン=サーンスは相変わらず素晴らしい!この作品がそれを証明している!」......そんな中、人々は、「自分は遠く離れたところで別の環境で休息したい」という友人あての短い手紙以降、行方が分からなくなったサノワ氏ことサン=サーンスの消息を噂したのでした。船の事故で溺死したらしい、病院にいるらしい、いや実はパリの近郊に潜んでいるらしい...さまざまな噂が飛び交いましたが、彼は、カナリア諸島のラス・パルマスに家を借りて、読書をしたり、執筆をしたりと、文学三昧の日々を過ごしていたのでした。
本田聖嗣