不良が不良として表現できた
そんなエピソードの中には歩行者天国にまつわるものもある。スピッツの「楓」には、デビュー前の草野マサムネが歩行者天国に「これ聞いてください」とデモテープを持ってきた、と書かれている。当時の「ホコ天」で最初に人気になったのが彼らだった。
彼らがデビューした時、何よりも新鮮だったのはライブが自由だったことだろう。ライブハウスなどの屋根のある空間で演奏してきたバンドにはない伸びやかさ。天井や壁を感じさせない「路上発」を旗印にした最初のバンドだった。宮田和弥は、彼らを追うようにホコ天で人気になったTHE BOOMについて「ヴォーカルが人垣を超えるくらいにジャンプするんで見に行ったらトランポリンを使っていた」と笑った。「ホコ天」はそういう自由さに溢れた場所でもあった。
バンドがカバーしたバンドのアルバムが多くない理由は簡単だ。歌が良ければいいというわけではない。ソロ歌手が名曲を熱唱するのとは訳が違う。そのバンド自体の味がないと表現しきれない。「BADAS(S)」は、彼らがバンドとして成熟したからこそのアルバムだろう。パンク系ビートバンドからスピッツ、学園祭のオープニングを務めたミスチルのようなメロディアスなポップロックバンド。80年代から90年代にかけてのバンドの二つの傾向を自分たちのバンドの音として昇華している。
その最たるものが収録曲中唯一のソロアーティスト、松任谷由実の「Hello My Friend」だ。緩やかに漂うような品のあるメロディーをビートを生かしたバンドのアレンジに変えている。宮田和弥は「デビューした頃からリーダーの森純太は、ジュンスカはユーミンのメロディーをニューヨークのパンクバンド、ラモーンズのサウンドで表現したバンドと例えてたんです」と言った。当時、硬派なパンクバンド達の中で、なぜ彼らが都会の女子中高生に爆発的な人気になったのか、改めて再認識させる曲になっている。
それにしても、と思う。
80年代から90年代にかけてのバンドがいかに伸び伸びとしていたのか。そして、彼らを育んだ「ホコ天」に象徴される東京の街がどんなに自由だったか。
今、代々木だけでなく「路上ライブ禁止」を掲げる街の方が多い。宮田和弥は「日常性の中の不良魂の爆発みたいなものが当時のバンドだった」と言った。「不良魂」などという言葉自体が今、死語になりつつあるようにも思う。不良が不良として表現出来たのが80年代で、不良そのものが存在しえなくなっているのが今なのかもしれない。
もう「ホコ天」は出現しないのだろうか。
東京オリンピックを前にした東京が自由の街、になることはあるのだろうか。
(タケ)