■『ジャーナリズムに生きて』(原寿雄著)
西部邁氏の自裁、野中広務氏の逝去と、一時代を画した人々が立て続けに世を去った。比べればニュースの扱いは小さかったものの、昨年12月の「原寿雄死去」の知らせもまた、一つの時代の終焉を感じさせるものであった。享年92。
反権力の骨太のジャーナリストとしてその名を知ってはいたものの、訃報に接し、その人となりを全く知らないことに思い至り、氏の自伝である本書を拝読した。
菅生事件の教訓
原寿雄というジャーナリストを一躍有名足らしめたのは「菅生(すごう)事件」と聞く。1952年の大分県菅生村派出所の爆破事件、より具体的には「警察...の一部が...現職警官をスパイに使って巡査派出所の爆破を計画、現場に目標の共産党員をおびき寄せて爆破事件を演出、逮捕、有罪判決を導き出す。しかも主犯とみられる警察官を警察組織が五年間も匿う」(本書P101)という事件である。共同通信社会部に所属していた氏は、このでっち上げ事件を実行した警察官を探し出し確保した一員であった。
氏がこの事件の教訓を総括して述べる箇所が興味深い。権力批判のみならずジャーナリズムの在り方にも警鐘を鳴らすからである。
曰く、(1)権力の危険な実態、(2)警察に依存して書いてきた事件記事への根源的な疑問、(3)裁判官、検察官への不信感、(4)世論の怖さと世論に同調しやすいジャーナリズムの怖さ、(5)特ダネ競争の功罪、(6)真実追求の力不足、そして(7)ジャーナリストの仕事の面白さ、社会的ポジションの重要さである。
具体の内容全ては紹介できないが、(6)を説明したい。
ここで氏は、本事件を追った坂上遼著『消えた警官』なる書を引用し、自身の取材が到達しえなかった事実を記す。即ち、当時の共産党大分県委員長が「暴力革命を目指していたわけだから...もう三ヵ月、いや一ヵ月警察が待っていれば冤罪、でっち上げ事件でない、本物の菅生事件が起きていたと思う」と証言した、という事実である。警察の虚偽を暴いた氏は、具体的危険を示すこの証言をも重視する。「歴史的な真実追求の観点から...委員長の発言事実を加えることで...菅生事件報道の全体像は、初めて完結する」と指摘するその言葉は、氏が情緒的な運動家ではない、真実に奉仕する公正なジャーナリストであることを示す。冤罪は絶対悪だが、暴力が頻発した当時の殺伐とした空気の中、治安を守る労苦がいかばかりであったかを推知させるに足る貴重な証言である。
現役ジャーナリストへの遺言
貧しい農村に生まれ、軍国少年として育って海軍経理学校にて終戦、ほどなくリベラルに転向。報道機関の現場、デスクそして編集局長を経て、日本のマスコミ界を支える立場に。氏の自伝は、貴重な証言を数多く含み、戦後史のある一面を明らかにする。そこには戦後日本人の価値観の相克があるが、同時に、報道の自由が謳歌されている。
読み通して改めて思う。人の一生はまことに長く、尊い。これを論評するなどという不遜なことは到底出来ない。但し、氏の姿勢が常に「自由」に奉仕するものであったことは、賞賛に値すると評者は思う。
朝日新聞が生ぜしめた慰安婦誤報に憤る保守派の方々も、リベラルの真骨頂を見せた氏の一生から学ぶものは多かろう。氏が叱咤する日本ジャーナリズムの問題点は、保守派の報道批判と表裏をなすからである。
欧米諸国では、保守・リベラルの溝が深まり社会が二極分化して映る。そこにポピュリズムが浸透する危険性が露呈しているが、我が国でもその萌芽が見られる。対立を緩和する契機は、こうした先人の生き様に学び、真実と自由の尊重という価値を共有することにあるのではなかろうか。戦後の左派が戦中の軍部の虚偽を暴いて勢いを増したのと同様、昨今の保守派もまた、左派陣営の虚構を暴くという営みから求心力を得てきたのである。
2011年に岩波現代文庫のために書き下ろされた本書は、Amazonで見る限り、実質的には氏の最後の単著である。氏はその経験から紡ぎ出された「ジャーナリズム哲学」21項目を列挙して本書を締め括っている。
例示しよう。その(4)に曰く「...日本のプレスの自由は世界トップクラスである。ジャーナリズムは、その自由を使い切っていない」 その(5)に曰く「...戦時中、少数派を非国民扱いしたジャーナリズムは今も多数派になりたがる。...」 その(9)に曰く「ジャーナリズムの基本は、オピニオンよりオピニオンの基となる事実の報道である。...」 その(20)に曰く「...世論を無視してジャーナリズムはない。世論追随ではジャーナリズムになりえない。...」
この21項目は、報道に従事するすべての方々への原氏の遺言にして、最後の檄文と言えるのかも知れない。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)