スーパープロデューサーになっても終始、演奏家
昭和から平成という移り変わりの中で激変していったのが音楽を取り巻くテクノロジーだろう。アナログからデジタル。レコーディングもライブも日々新しくなってゆく。彼はそのインタビューの中で「ぼくたちの場合には 常に機械に勝っていないといけないっていうか、こちらのアイデアが勝ってないとダメなんですね」と話している。彼がTMNを終了させてゆく時期はヨーロッパのダンスビート、ユーロビートの輸入盤を仕入れることで始まったレコード会社、エイベックスと急速に接近してゆく時期と重なりあっている。デジタルな高速ビートはアメリカ発のR&Bやファンクに代表されるダンスミュージックを一変させた。ユーロビートで爆発的に盛り上がっていたディスコ、マハラジャで行われていた小室哲哉主宰のダンスイベントから生まれたユニットが93年デビューのテツヤ・コムロ・レイブ・ファクトリー、trfだった。デビュー2年でCD売り上げ史上最速一千万枚突破。その後の歴史的快進撃の説明は不要だろう。
95年に豊洲の野外で行われたイベント「TK ダンスキャンプ」で坂本龍一と一緒にYMOの「BEHIND THE MASK」を演奏するのを見て、彼が継承しようとしている音楽を再認識させられた覚えがある。YMOが実験したコンピューターを使ったポップミュージックの徹底した大衆化。作詞作曲、そしてプロデュース。それまで裏方的と思われていた「プロデューサー」が脚光を浴びる時代が来た。
例えば、Aメロ・Bメロ・サビというJ-POPの定型を無視するかのようにビートで盛り上げてゆく構成や劇的な転調、時にクラシカルでもある歌い手の歌唱限界を生かしたメロディーの情感。演歌的恋愛ドラマとも違う女性の生活感。洋楽のコピーでなく歌謡曲とも違う。彼が作り出したヒット曲のいくつもの特徴はその後のJ-POPの一つの類型になっていることは間違いない。
とは言え、彼は終始、演奏家だったように思う。TM NETWORKのライブは最新機材を弾きこなす御披露目の場だったし、trfの初めての東京ドームには生バンドが入っていた。globeの東京ドームでも彼はハードロックのミュージシャンのように激しいパフォーマンスを見せていた。どんなにスーパープロデューサーになってもミュージシャン魂を失わない人、というのがその時の印象だった。
91年の「月刊カドカワ」のインタビューで彼は、自分の活動を「皿回し」に例えてこんな話をしている。
「一枚まわったら次をまわして、二枚目がまわったら三枚目をまわして、三枚目がまわりだしたら一枚目二枚目をまた加速、力を供給してあげて、どこまで増やせるか。一緒にまわってるお皿を何枚まで増やせるかっていうのと同じなんですね」
「一枚だけじゃつまんない。一枚まわり続ければ、次にとりかかる。だから止まってこっちだけというふうにはしたくない。止まらないようにしなきゃいけない」
その後、彼は何枚の皿を回したことになるのだろう。そして、もはや彼の中には回すべき皿がないということなのかもしれない。でも、常に勝ち続けないといけない、何かと引き替えに皿を回し続けていないといけないのが「商業主義の戦場」だとしたら、「引退」というのは、そこから身を引くということなのではないだろうか。
もう次の皿を回す必要もない中で音楽と向き合う。
そこからまた生まれてくるものがあると信じたい。
(タケ)