今日は、「シチリア島風の」という意味の題名、「シシリエンヌ」というタイトルの、フランスのフォーレの作品を取り上げたいと思います。
シチリア島は、地中海の中心にあり、地中海最大の島です。そのため、古代より複雑な歴史を持っています。この島を支配した勢力をざっと並べてみても、古代ギリシア、カルタゴ、古代ローマ帝国、ゲルマン、ビザンツ帝国、イスラム帝国、ノルマン人、神聖ローマ帝国、フランス、スペイン、そして現在はイタリア――と、ヨーロッパ史を俯瞰するかのようです。このような歴史的経緯から、「文明の十字路」と呼ばれたりもします。
文明が交錯する、すなわち、異言語や、異文化や異なる宗教が接するとき、得てしてそこには新しい文化や文明が生まれます。
「近くにある異国」
例えば、シチリア島は、12世紀ごろ、支配層はノルマンでも、イスラムの文化が色濃く反映していましたから、彼らによってもたらされた古代ギリシアの文献などによって、ルネッサンスが花開くきっかけとなったといわれており、イタリアがルネッサンスの発信地となったのには、シチリア島の存在がかなり大きいといえるでしょう。近代になるまで、最も大量かつ迅速な交通手段は船であり、地中海に浮かぶシチリア島は、交通集積地でもあったからです。
そんなシチリア島に起源をもつと言われた舞曲が、16世紀から17世紀にかけて流行します。付点のリズムが特徴的なゆったりとしたこの舞曲はイタリア語で「シチリアーノ」、フランス語で「シシリエンヌ」、と呼ばれました。
本当に、この舞曲がシチリア島に起源をもつものであるのかは、かなり不確かで、ひょっとしたら関係がないかもしれないのですが、後期ルネッサンスからバロック時代のイタリア本土の音楽家が、「シチリア風だ」と感じて、この舞曲を扱っていた、ということは間違いありません。ちょっとした「異国的趣味」なのかもしれません。誰もが知る複雑な歴史を持つシチリア島は、イタリアの人たちにとっても「近くにある異国」だったといえそうです。
「町人貴族」が日の目をみなかったシシリエンヌ
近代のフランスの作曲家、フォーレは、19世紀の終わりに、同じフランスのモリエールの劇「町人貴族」の付随音楽として、新しい「シシエンヌ」を書き上げました。モリエールのオリジナルの劇は、ルイ14世が、外交的にぎくしゃくしていた当時のオスマン帝国トルコをからかうために、宮廷作家モリエールに銘じて書かせた喜劇で、当時の音楽はリュリが担当していた、堂々たる「宮廷上演作品」でした。フォーレの頭にも、当時流行していた「トルコ趣味」があったのかもしれません。ともあれ、古い時代に流行した「シシリエンヌ」という形式で、曲を書き上げたのですが、残念ながら、フォーレが音楽をつけた劇は上演されることはありませんでした。
次に、ベルギーの作家、「青い鳥」などで有名な、モーリス・メーテルランクの原作「ペレアスとメリザンド」を英語訳してロンドンで上演するときの音楽を作曲してくれ、という依頼が、フォーレに舞い込みました。1893年にパリでオリジナルのフランス語で上演されていた劇としての「ペレアスとメリザンド」は、その独特の世界に感激したフランスを代表する作曲家、クロード・ドビュッシーを刺激し、彼がオペラ化を思い立ち、5年後にはほぼ出来上がっていました。イギリスの女優が、ドビュッシーに、英語版での劇上演の時にもオペラから音楽を抜粋して使わせてくれないか、と依頼していたのですが、ドビュッシーはこれを拒絶します。そのため、同じくフランスを代表する作曲家フォーレに改めて劇付随音楽を依頼したのです。
ところが、フォーレはこのころ、音楽院の作曲家教授や教会のオルガニストとしても忙しく、とてもオーケストレーションをしている時間がなくて、弟子のシャルル・ケックランに丸投げします。フォーレも細かい指示を与えたといいますが、ケックランもよい仕事をし、フォーレ自身の指揮によって、劇音楽、ペレアスとメリザンドは1898年、ロンドンで初演され大成功をおさめます。
こうなると欲が出たのでしょうか、フォーレは19曲あった劇音楽から3曲を選び、そこに、2曲を追加して、純粋な管弦楽組曲「ペレアスとメリザンド」Op.80として、独立させたのです。そして、そこに加えられた2曲のうち、1曲が、「町人貴族」で日の目を見なかった「シシリエンヌ」なのです。
既に、チェロとピアノのアンサンブルとして出版されてはいましたが、この「管弦楽組曲版 シシリエンヌ」が、大ヒットとなり、今では、フォーレの代表曲として数えられるまでになっています。
そこはかとなくアンニュイな雰囲気が漂う、ゆったりとしたメロディを持つ「シシリエンヌ」は、シチリア島と、この曲自身の複雑な成立の経緯を内包して、はるかな歴史に思いをはせるような、ノスタルジーを感じさせます。
本田聖嗣