近代化論という思考枠組の揺らぎ
このように、日本の抱える課題を、近代化の先頭からの単線的な遅れととらえ、その遅れが特殊で脆弱な問題の構造を作り出しているという思考枠組は、この時代に限らず、明治以来戦後になっても一貫してつづいてきた。1980年代の高揚のなかで、「久しく後進性のあらわれとみなされてきた日本的特質の再評価」という問題意識に基づきつつ、「日本的特質を十分に包摂する普遍的な分析モデル」(村上泰亮)の構築を目指す動きもあった。ただ、村上の遺作となった『反古典の政治経済学』の主題として選ばれたのは、費用逓減の経済学に基づく「開発主義」の一層精緻な定式化であり、単線的な近代化論への回帰でしかなかった。
ところが、このところ、この思考枠組についに変化がおこるかもしれない気配が漂っている。中国などの旧大陸諸国の爆発的発展、近代化の先頭での民主主義の機能低下や技術的先導性の揺らぎに基づくものである。新興国はその規模にとどまらず、その質においても従来の先進国の地位を脅かす存在となっている。情報通信技術が自由主義の申し子のように理解されてきた時代は幕を閉じつつあるのかもしれない。情報通信技術が社会統制の手段となり、翻って社会統制が技術革新を生み出す(例えば、中国における顔認証技術の発展をみよ)。自己決定権という価値に基礎的性格を認めない社会でこそ、情報通信技術やさらには生命科学はその本領を発揮するのかもしれない。西側のSFや哲学では、これらの新技術への違和感が繰り返し表明されてきた(※)。これらの技術は個人に深く浸潤する特性を持っているのであるが、これらの違和感は新興国では易々と乗り越えられてしまう。思考枠組みにこのような変容の気運が満ちたのは、実に野呂や山田の生きたロシア革命後の諸情勢のなかでのこと以来である。
日本国民の大多数の気分を代弁すれば、むしろ単線的な近代化論のなかで、思考をつづける方が、楽で安全であるから、思考枠組の変動をなるべく認めないようにしたいといったところに違いない。実のところ評者にも、そうした気分がないわけではない。もっとはっきりいえば、近代化のなかで見出されてきた、リベラルデモクラシーは人類共通財産ともいうべき巨大な達成であると考えており、「未完のプロジェクト」である近代は、いまだ積極的な擁護に値するとさえ思っている。
近代の継承という立ち位置に立つか、それともその乗り越えに積極的に加担するか。いずれにせよ、そのどちらの位置に立つにせよ、単線的な評価軸のなかで自分のどこに問題があるか把握し、その改善にまい進するというプラクティスに終始する時代は過ぎ去った、と腹を決めなければならない。複数の軸のなかから、みずからの進むべき、あるいは進みたい方向性を見つけ出す作業の価値が高まっている。かつて社会主義の衝撃のなかから福祉国家が生まれたように、近代の承継を選び取ることでさえ、従来の路線を墨守することを意味しないのである。
はたして、野呂や山田の著作が古典たる地位を失う日は迫っているのだろうか。遠い過去の経済構造についての同時代的認識を記述した「史料」となる日が来るのだろうか。
(※)評者は「機械技術、生命科学の進歩で際立つ『人間性』の脆弱さ」(2016年6月)において、これらのSF、哲学作品を論じたことがある。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion