日中戦争とナチスのポーランド侵攻
しかしながら、日本政府の意思は違った。文部省体育課長の岩原拓は「オリンピックは紀元2600年記念事業とは明確に切り離すことが必要」と述べた。
動いたのは嘉納治五郎だ。各方面の有力者を集めた組織委員会の創設に尽力し、12月7日、オリンピック懇談会にこぎつける。その場で決定した大会開催の基本方針には「運動競技の国際大会にとどまらず国民精神の発揚と古今諸文化の示現に留意し挙国一致の事業とする」とある。陸軍の意向を忠実に反映したものであった。しかし、この方針が諸外国の不審、疑惑を招くことになる。
内外情勢が急変するのは翌37年。7月7日の日中戦争勃発である。
こんどは副島道正が動く。近衛文麿首相に政府の協力を懇請するが返答は曖昧。日本の擁護者クーベルタンが9月に逝去する。
「日本の使命はこれまでのいずれの国よりも遥かに重大である。東京オリンピックは、古代欧州文明の所産たるヘレニズムを最も洗練されたアジアの文化芸術と結びつけるものである。」とのメッセージを残して。
副島は、内外の情勢に照らして、日本が東京オリンピックを返上する可能性をラトゥール会長等に示唆する。一方、嘉納は、翌年3月のカイロIOC総会で組織委員会の立場を説明し、各国の理解をなんとか得る。二人のあいだの齟齬にはそれぞれに意図があった。その後、7月、厚生大臣木戸幸一がオリンピック中止を決定する。