古代ギリシアの哲学者たちは「詩人だった」
著者は1979年にノーベル物理学賞を受賞したアメリカの理論物理学者であり、本書奥付によれば「本書は歴史家や哲学者の大反発を呼び、2015年欧米の論壇でもっとも物議をかもした一冊となった」とある。さもありなん。歴史学者の伝統的姿勢を正面から否定するのみならず、古代ギリシアの思索を科学ではないと断罪し、哲学者たちは「詩人だった」と喝破するのである。
だが、高校や大学の社会思想史でタレスの「万物は水である」から始まる哲学史を学び、なぜ哲学者がモノの組成を語るのか、と素朴な疑問を抱いたであろう多くの人にとって、本書はその霧を晴らしてくれる最高のガイドブックともなろう。
科学的思考の萌芽に対し、イスラム教とキリスト教がそれぞれどう対応したかも詳述されるが、これが真に興味深い。
ギリシアの到達点を承継したはずのアラブ世界は、イスラム教の伸長にしたがい科学的思考の獲得から遠ざかっていく。全ては神の力に拠ると徹底して信仰するが故に、自然法則の意味そのものを否定する教義が現れるからである。11世紀にバグダッドで活躍したアル=ガザーリーの『科学の起源』(何と皮肉なタイトルか!)の内容を著者は紐解いて曰く、「酒は肉体を活気づけるが、それでもイスラム教徒には禁じられている。同様に、天文学や数学は精神を活気づけるが、『それでも、それらを通じて危険な説にひきつけられてしまうことをわれわれは懸念する』のだ」。中世キリスト教会が紆余曲折を経ながらも、自然法則の研究を「神が通常起こそうとすること」を研究するとして、神への信仰との折り合いをつけたことと、この姿勢は決定的な違いとなる。
本書を通じて、評者は、現代社会のイスラム教が、教義及びその信仰姿勢の徹底度において、抜きがたい困難を包摂していることを改めて痛感した。そしてそのうちの原理主義一派が、信仰の名の下に、教義が否定し続けてきた科学による陰の果実たる近代火器を用いて暴虐を働く様を、複雑な思いで凝視せざるを得ない。
また評者は、千年後の学者が、現代の学説を批判的に考証する姿を思い浮かべる。現代もいずれ過去になる。本書を読むにつれ、現代の学問を無条件に信奉する危うさに思いを致してしまうのは、考え過ぎであろうか。自然科学でさえこれほどの生みの苦しみを経てきたとすると、例えば経済学は、今どのような発達段階にあるのだろう。千年後の学者は現代経済学をどう裁くであろうか。
我々は、現代の経済学説が不完全でありうることを承知している。だが、代替するものがない以上、その不完全なものに依拠して、一国の経済政策は推し進められていく。それが時代の限界というものなのかも知れない。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)