タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
シンガーソングライターに最も影響を与えた詩人というと谷川俊太郎以上の人はいないのではないだろうか。中島みゆきが大学の卒論に取り上げたというエピソードは有名だ。そのきっかけになったのは谷川俊太郎の「私が歌う理由」だったという。彼女はその時のことを「ガーンとやられたと思った」とも書いている。
中でも、谷川俊太郎の詩を誰よりも歌っているアーティストが小室等である。先月発売になった彼の12年ぶりのアルバム「プロテストソング2」は、全曲が谷川俊太郎作詞である。「2」なのだから「1」もある。
78年に出したアルバム「プロテストソング」の39年ぶりの「2」となった。
若者たちのギター「教則本」になる
「去年の初夏だったと思います。俊太郎さんたちと映画を見に行った帰りのタクシーの中で、久しぶりになりますが『プロテストソング2』はどうでしょう、と持ち掛けたんです。俊太郎さんは、いいかもね、と答えて下さって、一週間後には、歌えそうなものを拾ってみました、というメモと一緒に10数編の詩が送られてきました」
小室等は、筆者が担当するFM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」でのインタビューでそう言った。一人のアーティストを一か月間特集する同番組の11月の特集アーティストが彼だ。
日本のフォークソングは60年代初めに生まれている。アメリカでは50年代の終わりに学生たちの「埋もれた民謡」の発掘ムーブメントとして始まった。その中からオリジナルの歌を歌う人たちが登場しヒットチャートをにぎわすようになる。具体的には「トム・ドウリー」を全米1位にしたキングストン・トリオやブラザース・フォア、ジョーン・バエズらである。もちろんボブ・ディランもいた。
小室等は、61年にキングストン・トリオに触発されて音楽をはじめ、そうした一組、ピーター・ポール・アンド・マリー。通称PPMに衝撃を受けて同じようなスタイルのバンドを組みPPMフォロワーズという名前で活動するようになった。1964年。彼は多摩美大の学生だった。「PPMは、ハーモニーの美しさと歌っている曲の社会性が他のグループやアーテイストと全く違っていた。こんなことを歌っているのかと思いました」。
1966年にPPMフォロワーズが出した「ピーター・ポール・アンド・マリースタイル・フォークギター研究」は、まだ教則本すらなかった時代のギターのお手本となった。60年代にフォークに興味を持った若者の多くがそのアルバムを参考にギターを勉強していた。彼が若くして「長老」と呼ばれていた所以である。
小室等は1943年11月生まれ。今年74才になる。
60年代の終わりから70年代にかけてのフォークグループ、六文銭として。72年にソロになってからは、吉田拓郎や井上陽水らとともに新しい時代を切り開く最前線で活動すると同時に、劇作家や現代詩人の詩に曲をつけるという方法で独自な作風を作り上げてきた。