この「運動論」はよい「運動論」なのだろうか。そして、そもそも我々は「運動論」を持たねばならないのだろうか。
「運動論」など持ちださなくても済むところに「運動論」を持ちだし、一種の決断主義が跳びだしたのである。たしかに歴史が動くとき、その歴史を動かす主体にとっては自分の次の行為は予測できないものであり、そうして歴史が動いてきたことは事実ではあろう。
しかしながら、主体が〈未来への応答〉をしているかのような外観のもと決断する歴史的行為がなにをもたらすかは、「神のみぞ知る」といった程度の頼りないものでしかない。実際、歴史上には数多くの過った決断があった。レーニンによる第二革命は、ソヴィエト体制の続いた間でこそ〈未来への応答〉を遂行した行為であるかのようにみえていたかもしれないが、冷静に評価すれば、人命と資源の莫大な無駄をもたらしただけではないのか。世の中を変える上で必要なことは、決断だけでは足りない。(完璧なものは望みがたいとしても)ある合理性に裏付けられた見通しがあって然るべきである。
本書においては、著者が世の中をどう変えようとしているのか、必ずしも十分に呈示されていない。変革の具体像がないままでは、本書の意義は、革命家候補者を相手に決断主義者たることを指南する程度のものになってしまう。現代が不可能性の時代である根本には、技術革新、グローバル化、人口減少という下部構造がある。指南書だけでできることはあまり多くない。
そもそも我々は「運動論」を持たねばならないのだろうか。思うに、我々は「運動論」などなくても、すこしずつ世界を変えていくことができる。
「神は細部に宿る」。我々はどこにいようと自分の足許を究めることを通じて普遍へと近づくことができる。人間は、そのひとりひとりが「卓越」へと向かう先端である。
「運動論」という異物に接して評を書き進めてきた。これまでの論は幾分懐疑的なところもあっただろうか。
ただ、それでも、評者は正直なところ、本書における「運動論」が成功しているのか、失敗しているのか断ずることに躊躇を覚えている。異物感を与える読書体験はそれ自体貴重な体験である。本書は批評家大澤氏の「詩」(または「アジビラ」)として読むべきだと言われるなら、それはそれで愉しく読ませていただいた。また、ここまで評者の書いてきたものは、たやすくある種の「イデオロギー批判」の餌食となる類の言説であるのかもしれない。
あるいは、本書の副題が「Another World is Possible」とされていることに注目すべきであろうか。不可能性の時代において、別の世界をどう想像することができるか。我々は足許の日常を究めることを通じて、もうひとつの別の世界を創りだすことができる。著者は、「革命」とは非合法的な活動でなくとも、民主制の今日においては合法活動によるものでもよいとしている。だとすれば、評者のいう「卓越」による世界の変革と、大澤氏のいう「革命」は存外近しいところにある可能性もある。
その見立ての適否については読者にゆだねたい。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion