<未来へ応答>-「運動論」2
「運動論」という異物は、〈未来への応答〉というもうひとつの論題において一段とはっきりと見て取ることができる。
〈未来への応答〉とは次のようなものである。我々は、カフカ以前に書かれたブラウニングの詩にカフカ的特徴があることに、カフカが出てきたあとに気がついている。そのとき我々は、ブラウニングがすでに我々の呼びかけに応えようとしていた、我々と連帯しようとしていた、そう感ずることがあるというものである。ブラウニングが未来の存在である我々に応答しているかのようにみえてくるのである。
ただ、評者の理解では、〈未来への応答〉という現象は、なんら神秘的なものではなく、ごく自然な説明を与えることができるものである。その説明とは、アリストテレスの徳の倫理学に連なる「卓越主義」によるものである。卓越主義においては、人間の生きる意義を卓越、よりよい人間の能力の開発に取り組むことに見出す。ここでいう能力とは、芸術など個人的なものに限らず、政治など社会活動にかかるものが含まれる。卓越のもっとも顕著な形態はイノベーションを生みだすことである。そして、そのイノベーションの最先端では、先行の時代では萌芽的にしかみられなかったものが、後の時代のより大きな達成から顧みた際、よりよく理解されることになる。人間能力の開拓という普遍に近づく営みを想定するだけで、〈未来への応答〉のようにみえていたものが、実は錯覚であったことがわかる。
しかしながら、大澤氏は、この錯覚をまともに(?)受け止め、その錯覚を「運動論」へと転化する。革命がはじまる瞬間、まさにその引き金を引く人間の行為を引き出す、その本人にさえ予想も把握もできない力について語るために、この〈未来への応答〉を援用する。未来からの呼びかけを聞き分け、それに応える勇気を持つことが、きたる革命の主体を生みだす。ここでは、〈未来への応答〉が「革命」へと我々を導く「運動論」に絡めとられている。そして、その実例として、大澤氏が挙げるのがレーニンである。ロシア革命の当時、封建主義→資本主義→社会主義という段階を踏んで革命は進むという考えがあった。当時のロシアが封建主義段階にあったと解するなら、まず必要なのはブルジョワ革命までである。そうした考えに耳を貸さず、レーニンは一気に社会主義革命に走った。この行為こそ、予め定められたプログラムではなく、不定形な未来からの呼びかけに応える行為であるとして、著者は高く評価する。