■「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(帚木蓬生著、朝日選書)
ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)。あまり耳慣れない言葉だが、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を指す。
世間では一般に、問題の解決を急ぐあまり、既存の理論や考えによって、すぐに答えを出そうとするが、そうした態度から一歩引いて、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味する。
本書の著者は、今年、古稀を迎える精神科医。数々の文学賞を受賞してきた作家でもある。
その著者が、今を遡ること30年以上前、精神科医となって6年目に、米国の専門誌に載っていた論文で初めて、このネガティブ・ケイパビリティという言葉を知った。以来、この言葉が、著者の人生を支え続けているという。難局に直面するたびに、この言葉を思い出すことによって、逃げ出さずにその場に居続けられたと語る。
「私たちにとって、わけの分からないことや、手の下しようがない状況は、不快です。早々に解答を捻り出すか、幕をおろしたくなります。しかし、私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事柄に満ち満ちています」
「私自身、この能力を知って以来、生きるすべも、精神科医という職業生活も、作家としての創作行為も、随分楽になりました。いわば、ふんばる力がついたのです。それほどこの能力は底力を持っています」
本書は、医療、文学、教育など様々な分野で、このネガティブ・ケイパビリティが発揮されている事例を紹介することを通して、その持つ大きな力を教えてくれる。
文学上の概念として、19世紀初頭の詩人キーツが発見
このネガティブ・ケイパビリティという概念は、25歳で早逝したイギリスの詩人、ジョン・キーツが兄弟に宛てた手紙の中に書かれたものだという。
シェイクスピアに傾倒するキーツは、シェイクスピアには、心の中を空にし、他の人間がどう考えているのかを想像する卓越した能力があったがゆえに、彼の作品の登場人物の行動は、読者の心の中で現実性を増していると高く評価していた。
そして、こうした共感的な想像力が生まれるためには、作家や詩人には、ネガティブ・ケイパビリティが必要になる、すなわち、「真の才能は、個性を持たないで存在し、性急な到達を求めず、不確実さと懐疑とともに存在する」と主張した。
キーツによれば、作家や詩人は、ヒトを含めた自然と対峙したとき、今は理解できない事柄でも、不可思議さや神秘に対して拙速に解決策を見出すのではなく、興味を抱いてその宙吊りの状態を耐えるべきなのだ。
本書において、作家である著者は、ネガティブ・ケイパビリティを有する作家として、シェイクスピアと紫式部を取り上げる。「マクベス」、「リア王」、そして「源氏物語」において、登場人物達が繰り広げるドラマから、シェイクスピアらの内にあるネガティブ・ケイパビリティの存在を指摘する。
恥ずかしながら、これらの作品に疎い評者には、著者が意図するところを正確に理解できたかどうか心許ない点もあるが、少なくとも、これらに作品に登場する人物達が、読者の予想、筋書きを大きく逸脱し、振る舞うことを通じて、ストーリーを展開していく様子から、シェイクスピアや紫式部の底知れない能力というものを感じさせられた。